流しの踊り子
日本復帰が迫る沖縄は、「世替わり」の混沌の中にあった。街には復帰への高揚と不安が入り交じる妙な空気が漂い、米兵相手のバーやキャバレーからは、Aサインの許可証が徐々に姿を消していった。
空前の好景気をもたらしたベトナム戦争の終戦も近かった。復帰前、生きる糧を求めて「基地の島」に渡った人々の運命も大きく変わった。
「アメリカー相手の商売をしている者の稼ぎは、そりゃあすごいもんだったさ」復帰前、コザのAサインバーでバーテンとして働いていた栄としこ(仮名)は、往時の活気を懐かしむ。
「パンパンやキャバレーの踊り子なんかは相当もらっていたはずよ。貯め込んだお金を元手に商売を始める人も多かったさ」島と同じく奄美出身だったキワコは、同郷の心やすさからか、コザの店で、出会ったばかりの島に身の上話をしたという。
「出会った時は、『〝流し〟の踊り子として生計を立てている』と言っていたよ。普段は那覇にいて、呼ばれればあちこちのスナックやキャバレーで例の〝ハブ踊り〟をやっていたそうだ」キワコが、郷里を離れ、沖縄の土を踏んだ時期ははっきりしない。
ただ、縁もゆかりもない別の島からやってくる際に、ある人物を頼ったことは後年になってわかったという。
「戦前、辻で料亭を経営していた女性がいた。キワコは、戦後、那覇市若狭で喫茶店を経営していたこの女性のもとに身を寄せていたようだ」島は、言う。
琉球王朝の時代から花街として栄えた辻は、「尾類(ジュリ)」と呼ばれた娼妓が集まり、一種のコミュニティーを形成していた。
3歳で辻に身売りされ、戦後の米軍政下で料亭「松乃下」を開いた上原栄子は、自身の半生を綴った自伝『辻の華——くるわのおんなたち』(時事通信社刊)に、往時の辻の雰囲気をこう記している。
〈約三百軒もあるといわれた妓楼のどこにも、女たちを支配する男性が一人もいなかった、まったくの女護ヶ島だった(中略)その花園には実際に特別な女だけの行政がしかれ、売られてきた多くの女たちが、娼婦か芸者か見分けもつかぬ形で、厳しい辻だけの掟を守って秩序を保ちつつ、長い間に培われた穏健な雰囲気のなかで、お互いを信頼し、尊重し合いながら日々の生活を営んでおりました〉