最盛期には100軒以上、米兵相手の防波堤にもなったコザ・売春がいの不条理なオンナの物語「離島や大島から女売りがきた」「娘なんかパンパンさせていたよ」〈1972年沖縄コザ・パラダイス〉_2
1960年のコザ市の街なみ ©沖縄県公文書館

米軍認可のAサイン

嘉手納基地を抱えるコザには、米兵相手の商売をする者が沖縄の内外から集まり、やがて、米軍認可の「Aサイン」の看板を掲げるバーやキャバレーが集まる「特飲街」が複数できた。

1950年、嘉手納基地そばの住宅街から離れた場所に最初期にできたのが、「八重島」、「ニュー・コザ」とも呼ばれた特飲街だ。最盛期には、100軒以上の米兵相手の「飲食店」が軒を連ねたが、その多くで売春が行われた。

米兵による婦女子への暴行が頻発していた当時、特飲街の女性たちが、彼らの劣情を受け止めることで、性暴力被害の拡大を防ぐ〝防波堤〟の役割も果たしていたようだ。

しかし、米軍による「オフリミッツ(立ち入り禁止令)」の度重なる発令で街は衰退。

1953年ごろ、米兵たちの「米軍人、軍属の健康、福祉の増進」と銘打って始まった「Aサイン」制度が発足すると、コザ十字路そばの「吉原」、黒人兵が集った「照屋」、嘉手納基地のゲートから胡屋十字路まで続く「ゲート通り」、「BC通り」の呼称もあった「センター通り」など「コザ」の各所に特飲街が勃興した。

街が最も活況を呈したのは、月に2回の「ペイデイ」の日だ。

「コザ」のAサインでバーテンとして働いていた女性はこう証言している。

「朝鮮が終わって今度はベトナム。Aサインにはアメリカー(米兵)がひっきりなしに来よったよ。ペイデイの日にはドルの束を机にドンっと置いて浴びるように飲んでいたよ」

「アメリカーって言っても下っ端の人はかわいそうなもんさ。それでもホステスの女の子はお構いなし。『明日、死んでくるんだ』っておいおい泣くアメリカーを『オーケーオーケー』言いながら慰めて。もう一方でグラスをどんどん空けていく。私にはようしきらんかったよ」

ベトナム戦争当時、「コザ」にある嘉手納基地は、兵士を前線に送り込む前線基地となっていた。任務のために戦地に赴き、沖縄に帰還した米兵は「山帰り」と呼ばれた。生命の危険と引き換えに多額のドルを手にした彼らは格好の「カモ」だった。

「コザ」の古参ヤクザは振り返る。

「ベトナムから休暇で帰ってくる連中がいるでしょ。『山帰り』いうてね。殺し合いから戻ってくるわけだから、もうみんな頭おかしくなっているわけさ。そういうのを待ち構えている連中がいるわけよ」

「連中は女に飢えているから、ちょっとあそこを触っただけでもう終わり。ましてアメリカーなんて若いさ。戦争の手当てでものすごいカネをもらっているけど、若いから感覚もわからんわけよ。そういう連中からカネをふんだくる。ぼったくり? ま、そうさね」