いのちとの向き合い方
坂本 生きるというのは、一つの長い呼吸のようなものだと思うんです。吸って吐く、この一つの循環。そしてその流れが止まる――すなわち、「息をひきとる」とき、その生命は死を迎えるわけです。
この動的平衡には抗えないし、また逆らわないほうがいいと思っています。ただし、少しでも長く生きていたいというのも、偽らざる思いです。そのときになってみないとわかりませんが、思想や理屈でコントロールできる問題ではないと思います。
そして僕が死んだとき、僕の体は地に還って微生物などに分解され、次の世代の生物の一部となって「再生」することでしょう。この循環は、生命が誕生してから何十億年と続いてきましたし、これからも続いていくはずです。僕という生命現象は、そうした気の遠くなるような循環の一過程なのだと捉えています。
福岡 死をどのように受け止めるかによって、いかにいのちと向き合うかという生命観の根幹が問われますね。個体の死は本人にとっても、まわりの者にとっても悲しいことですが、避けがたいことでもあります。
天国に行くとか生まれ変わるとか来世があるとか考える方法も一つの死生観ですが、私は死を、――ヒト以外のすべての生物がそうしているように――できるだけ自然に受け入れたいと思っています。
早かれ、遅かれ、すべての生物体に寿命が来ます。それはエントロピー増大の法則に対して抗し続けてきた動的平衡が、ついには、エントロピー増大の法則に凌駕されてしまう瞬間のことですが、死は敗退ではなく、ある種の贈与です。つまりそれまで自分の生命体が占有してきた空間・時間・リソースといったニッチを誰か他の若い生物に手渡すということです。それゆえそこでまた新しい生命の動的平衡が成立します。自分の個体を構成していた分子や原子も環境の中に戻っていきます。
こうして生命の時間は38億年の長きにわたって連綿と引き継がれてきたわけですね。ですから個体の死は最大の利他的行為といえます。身近な人の死を受け入れることは耐えがたいほどの苦しみを伴いますが、このような観点で見れば、自然の摂理によって迎えられた死は、悲しむべきことというよりも寿ぐべきことであり、日本語の寿命という言い方にも通じます。
それから、個体の生命が有限であることが、すべての文化的、芸術的、あるいは学術的な活動のモチベーションになっていますよね。誰もがなんとか生きた証を立てたいと願います。有限であるからこそいのちは輝くのです。そしてその有限のいのちが閉じるとき、また別の生命へと動的平衡がリセットされ継承されます。このようにして生命系全体は連綿と続いてきたし、これからも続き得るのだと思います。
写真/zakkubalan ©2020 Kab Inc.(坂本氏) 稲垣純也(福岡氏)
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