前編【坂本龍一×福岡伸一】「ここで終わりじゃないんだ、次はあそこに行かなければいけないんだ」対話の末にたどり着いた人生観 はこちら
福岡ハカセの修行時代
福岡 現在、私が客員教授を務めるロックフェラー大学との関わりは、遡ること 30年ほど前になります。理科系では、大学に四年、大学院に五年行くともう20代後半になってしまうんですけれども、一人前になるには、その後、ポスドク(任期付きの研究員)という修業期間を経なければなりません。
私がポスドクを始めようとしていた1980年代の終わりごろは「日本にはポスドクの制度がないので、とにかく外国に出て修業してこい」という雰囲気がありました。当時はまだメールもネットもない時代ですから、「自分を受け入れてほしい」という手紙をあちこちの海外の大学に送ったんです。
そういう手紙は世界中から来るので、ほとんど捨てられてしまうのですが、たまたま、ここの大学で受け入れてくれる先生がいたので、柳行李一つでニューヨークにやって来たというわけですね。……実際には、スーツケース二つぐらいでしたけれども。
坂本 ロックフェラー大学には、どなたかお知り合いがいたんですか。
福岡 いや、全然いませんでした。たまたま空きがあったということで、運良く拾ってもらえたんですね。
私のポスドク時代はだいたい3年ぐらいでしたが、せっかくニューヨークにいても、自由の女神にもエンパイア・ステート・ビルディングにも行かず、ただただ、ボロアパートと大学を往復する日々でした。というのは、ポスドク生活というものは、今の言葉で言うとブラック企業にいるようなもので、朝から晩まで本当にボロ雑巾のようにコキ使われるんです。
特に日本人の私の場合は、言葉の壁も文化の壁もある中で、自分が曲りなりにも仕事ができるということを、とにかく体を張って示さないといけませんでした。そんなふうにがむしゃらに日夜を問わず働いても非常に薄給でしたから、最低限の生活費を払うと何も残りませんでしたね。
坂本 福岡さんにもそういう時代があったんですね。
福岡 当時の私は、まだ何者にもなれない「nobody」で、精神的にも経済的にもまったく余裕はありませんでした。でも、今から思うと、自分の好きなことだけをやっていればいい、人生最良のときだったとも言えます。
それから時を経て、今度は客員教授として、この大学に再訪するチャンスをいただきました。一応、昔よりも精神的にも経済的にも余裕がややあるということで、少しは、ゆっくり生物学というものを見直してみようかなという感じで過ごしています。
というのは、私は分子生物学という、ロゴスの極みのような研究をずっとやってきたわけで、要するに、機械論的な生物学にどっぷりハマっていた人間なんです。
坂本 でもそれは基礎学力のようなもので、そこを通らないと、その先に行けないですからね。
福岡 そうそう。この前おっしゃっていたように、その山に登って、初めて、次の風景が見えるわけなので……。
坂本 まず登ってみないと、ということですよね。
福岡 私はそんなに大発見をしたわけではないんですけれども、細胞をすり潰したりマウスを解剖したりして、一つひとつの遺伝子に名前を付けるという地道な作業を続け、いくつかの小発見をすることができました。けれども、今から10年ぐらい前に、少し考えるところがあって、ロゴスの生物学から方向転換をしたんです。
20世紀の生物学はウイルスの実態やあらゆる情報を検出できるようになったけれども、それによりあまりにも生物を情報として見過ぎたのではないか、それが今に続く私の問題意識になっています。