映像制作のAD時代の失敗

――先ほども少し話に挙がりましたが、漫画家になる前は映像制作会社でADをやっていたんですよね?

はい。ADをやめた23歳で漫画を描き始めて、デビューしたのが24歳なので、結構遅いんですよ。大学時代も道具は揃えていたんですけど、枠線もGペンも全然ダメで…。いまはデジタルだから多少は描きやすいかもしれないですけど。

――特に、吉本さんの書き込みをアナログでやるのは相当大変だと思います。

あれはアシスタントをしていた『デカスロン』の山田芳裕先生に影響を受けたと思います。山田先生が丁寧に描き込まれるので、自分も描き込まなきゃと思ったんです。

【漫画あり】重版を重ねてもこづかいは上がらない。「来月どうなるかもわからない漫画家の世界ですから…」福祉系大学を卒業後、映像制作会社のADから漫画家に。吉本浩二の現在_4
吉本先生の作画風景
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――ちなみに、制作会社でADをやっていたのはドキュメンタリーをやりたかったからなんですか?

そういうのがやれたらいいなと思って入ったんですけど、あまりうまくいかなくて。ちょっと偉そうな言い方で申し訳ないんですが、大学の課外授業やサークル活動で福祉の現場に触れると、物語を超えてくるというか。一般的にはあまり知られていないことに興味があったんだと思います。
ただ、圧倒的にADに向いてなかったんですよね。テキ屋さんのドキュメンタリー作品に参加したときに、テキ屋さんからすごく怒られましたから(笑)。

――そのドキュメンタリー志向の部分を、いまは漫画でやれている感覚でしょうか?

それはあると思います。だから、僕はカメラというものが向いてなかったのかもしれませんね。『淋しいのはアンタだけじゃない』で佐村河内守さんにインタビューをしたとき、映像作家の森達也さんが一度同席していたんですけど、ああいった強大な胆力のある方じゃないとやっぱり映像はとれないんだと思います。