服部半蔵の名前の由来とは…?
漢織は時代が進むにつれ、機織機を一旦捨てて刀に持ち替えて、平家の武士になっていく。そして、安徳天皇の衛士大将にまで登り詰めたというのが、『源平盛衰記』にも登場する服部平内左衛門なのだという。
「その人が服部一族の出世頭で、今でも兵庫県には『平内神社』という氏神様があり、そこが現在に至るまで漢織の聖地になっています。
源平の戦いで平家が負けるわけですが、漢織は平家の血を大事に思っているため、逃げのびて隠れる。それで『忍び』になっていくんです。
漢織が平家であることを誇りに思っていた証拠に、漢織の「服部」の家系では、代々『平』と『保』の字を大事にしています。お父さんが『保』の字を使っていたら、その嫡男には必ず『平』の字をつける。そして、その嫡男には『保』をつける……そうやって『平』と『保』の字が代々受け継がれてきました」
しかし、服部半蔵の父は服部保長で「保」がつくのに対し、服部半蔵は本名の「正成」を含めて、「平」の字がついていない。
「これは服部半蔵が徳川家康公に仕えたことに理由があります。家康公は征夷大将軍になるのであれば“源氏の旗頭”になる必要があるため、『源氏長者』(源氏の棟梁)を称していました。そのため、一族としては服部“平”蔵と名づけたいところ、『平』の字を嫌う源氏の家康に気をつかい、『平』から横棒をずらした『半』を用い、服部“半”蔵とした。そのように一族に代々、口伝されています。
ただ、歴史学者の方々はこの説に賛同しません。資料や文献が残っていればいいのですが、(中編で)話したとおり、忍びは文献などで証拠を残してはいけませんからね」
一方で、呉織たちは漢織と異なり、ずっと機を織り続けた。そして堺の港辺りを中心として、輸入された錦糸や絹などを使い、実に雅な反物を作り続けた。それが有名になって「呉服」と呼ばれるようになったと、吉右衛門亜樹さんは話す。
残念ながらこれも口伝のみ。しかし、それはそれで大いにロマンを感じてしまう。