実は三方ヶ原では脱糞していなかった?

だが近年、この馬上での脱糞や、しかめ像を家康が描かせたというのは、史実ではないとの指摘が出ている。

家康が馬上で脱糞したとの記述が残っているのは、『三河後風土記』だが、この資料は寛永・正保年間(1624年~1648年)以後に書かれたものとされている。そこには、この脱糞の逸話は三方ヶ原の戦いの2か月前に武田方と徳川方が衝突した「一言坂の戦い」でのことと記されているのだ。

ところが史実では家康自身は一言坂へ出陣していない。そもそも三方ヶ原から逃げ帰る際に漏らした、という話はどこにも残っておらず、どうやらこの逸話は後世の創作である可能性が高いのだ。

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三方ヶ原の戦いについて学べる浜松市犀ヶ崖資料館

しかめ像も同様だ。「東照宮尊影」とはあるものの「家康が描かせた」との記述は一切見つかっておらず、初代尾張藩主の徳川義直が描かせたとの見方が有力だという。

さらに徳川美術館によれば、昭和10年開館の翌年、当時の尾張徳川家9代目当主徳川義親氏が地元新聞社の取材時に「家康の苦難を忘れないように」と話したことが、いつの間にか家康自らが描かせた、という話になってしまったのだそうだ。

こうした指摘が出てきたことにより、浜松市博物館や、家康の生まれ故郷である岡崎市などでは、展示方法の見直しを始めている。

逸話ばかりだけではない。家康ゆかりの地である浜松では、「家康は三方ヶ原は負けてなかった」との見方まである。地元の歴史愛好家は、こんな説を述べている。