信長への建前として負けたことに…

「三方ヶ原の戦いは、実は謎が多い戦いと言われています。家康の敗走時にはいろいろな逸話が残りますが、敗走中に腹が減って茶屋で小豆餅を食べたが代金を払わずに去ったとか、後世の創作と思われるようなものが多いのです。

家康は惨敗したというものの、実は両軍の死者数は資料によって大きな隔たりがあります。家康は、三方ヶ原の戦いの結果について、信長に『負けた』と言わなければならない理由があったのだと思います。

その一番の理由は、織田援軍として参戦した平手汎秀(ひらて・ひろひで)が討死したことです。信長は平手汎秀を非常に高く評価しており、なぜ守れなかったのかとなる。なので徳川軍が武田軍と互角に戦ったなどとは、口が裂けても言えないでしょう」

加えて、徳川軍の敗走には別の見方もあるという。

「徳川軍の陣はたしかに崩されたと思いますが、そもそも軍勢の数で敵わないことは家康は百も承知のはずです。そこであえて敗走しながら、武田軍を犀ヶ崖へと誘導したのではないかと考えています。

通説では浜松城に逃げ帰った家康が一矢報いようと武田軍に夜襲をかけ、犀ヶ崖へとおびきよせて転落させたとされています。崖に白い布を貼って橋に見せかけ、これに殺到した武田軍は次々と崖底へ落ちてしまったとされていますが、夜間とは言え、それほどうまく騙せるものなのか。なんらかの準備をしていたのではないかと考えてもいいのではないでしょうか」(地元の歴史愛好家)

三方ヶ原の戦いで家康は信玄に負けてなかった…?「逃亡中の脱糞」逸話も後世の作り話? 家康最大の危機に“新説”!? 地元歴史家は「信長に気をつかって惨敗と報告」_4
家康の策略により武田軍が次々と崖底に落ちていったという説がある犀ヶ崖
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浜松では、こうした“家康は負けてない”という家康びいきの説がそこかしこで見られる。
また、浜松市内の小中学校の運動会で行われる騎馬戦には、他の地域にない特徴があるという。

「白組紅組のように、まず徳川軍と武田軍に分かれます。最初に相手の帽子を取り合う普通の騎馬戦を行い、次に三方ヶ原の戦いを模した『城落とし』が始まります。敵陣の模型のお城に向かって玉入れの玉を投げつける競技です。中心に命中させると、模型の中に仕込んである装置が作動して爆発音がなり、白煙が上がります。早く爆発させた方が勝ち。
浜松に育った我々はこれが一般的な競技だと思っていましたが、この地域ならではの文化と知って驚いた記憶があります」(40代・三方原地区小中学校の卒業生)

松潤も驚きの“家康愛”。
実際に三方ヶ原の戦いで勝っていようが負けていようが、浜松市民はやっぱり家康が好きで好きでたまらないのだ。

取材・文/神保順紀
集英社オンライン編集部ニュース班