僕の演じ分けや解釈が必ずしも正解ではない

「ここが時代のボーダーライン」断ち切るものに向き合う時期が来ている――斎藤工が映画『イチケイのカラス』で向き合う時代の光と闇_2

――パンデミックをきっかけに滅びるものや、壊すべきものに切り込むテーマを感じたんですね。

日本でも、ニューノーマルに飛び込む以前に、「歴史があるものには未来がある」という神話が残っている部分が多くて。10年後、20年後に振り返った時に明らかにおかしなルールが、今もすでにあるじゃないですか。そういうデフォルト化されたものを変えていかないと、時代にアジャストできないんですよね。

それを守ろうとする人の分母が大きいほど、トライではなくプロテクトに舵を切ってしまう。だけど僕らは、未来に何を残すかを本気で考えて、自分の世代が受ける恩恵を守るより、断ち切るべきものに向き合わなければ何も変わらないと思っているので、他人事ではないと感じるプロットでしたね。

――田中(亮)監督が、演出家目線もある斎藤さんと月本の二面性を話し合いながら作っていけたとコメントされていましたが、月本という人物を斎藤さんはどう理解して作っていったんですか?

監督はそう言ってくださっているんですけど、僕は監督にさじ加減を委ねました。監督に俯瞰で「ちょっとダークが出すぎている」とかジャッジしてもらって、もうちょっと笑顔を多くとか、声のトーンを上げるというふうに調節してもらいました。

僕自身、映画を作ってわかったんですが、影響力の強い役者が作品のイニシアチブを握ることでうまくいく作品もあると思うんですけど、僕はそういうタイプの役者ではなくて。自分が与えられた役割に応えられているかは、作品が出来上がってからも疑問がぬぐえないのが正直なところなんですよね。

僕の演じ分けや解釈が必ずしも正解ではないというのは100も承知なので、正解を目指しながらも、監督が「撮れたな」と思うシーンが少しでも多く生まれることを願いながら現場に立っていただけですね。