団塊の世代800万人の死が目前に。火葬代費用は税金で補填されている現在、火葬後の残骨灰から金歯や貴金属を“採掘”されるのは避けられない?_2

死は個人の問題ではなく公共性という事実

「村八分」とは、村の掟や習慣を破った者に対して課される制裁で、ほかの住民が結束して、その家と絶交することだ。但し、火事と葬式については例外であった。埋葬まで行わなければ衛生上の問題が起きるためで、古来より死は公共性を伴っているのだ。

「そもそも、死を見送るのは自分ひとりではできないので、弔うには相互扶助の精神がないといけません。火葬から埋葬まで、近親者が残っていない人でも公務員や誰かが立ち会い、お見送りされます。ところが、死の話題はタブーとされ、議論することではないとされていることから、実情を知る機会が少なく、また公共教育がありません。かつては公共教育がなくても地域で行われる法事で自然と学んでいましたが、それも現在は失われています。

どう死んでいくのかを学ばずして、どう正しく生きるのかはわかりません。社会の中で、死がどのように機能しているのか。故人の尊厳を守りながら、知る必要がある時代にきていると思います」(前出・鵜飼さん)

公共性に重きをおけば、自治体が有価金属を売却して火葬場の施設運営費に充てることは次世代につながる人生最後のご奉公と思えるかもしれない。逆に、個人に重きをおけば何ひとつ他者には渡したくないと思うのも一理ある。

共同体の一員として、死をどう振る舞うのか。それを考えるための知識も情報も経験値も、すべて足りないのが現在の日本なのだ。

「なぜ残骨灰の売却を決めたのか。自治体は丁寧に説明し、火葬には費用がかかることの情報も開示する必要があります。国民的感情に配慮しなければ、理解は得られません」(前出・長江さん)

「売却益は公明正大な使われ方をしなければいけません。民間の入札により不透明な部分があるために生じていただろう疑問の解消も必要でしょう」(前出・鵜飼さん)

残骨灰から抽出される有価金属が自治体に渡るのが許せないのであれば、時計や指輪など貴金属を棺に入れない。金歯も子孫が相続する権利があると思えば、その口から歯をペンチで引き抜けばいいのだ。
見送る人間の我欲を優先するのか、故人を思い出の品とともに見送るのか。火葬場は自身の人間性と向き合う場ともいえる。