商業化に傾く五輪を間近で経験
視力とともに悩まされたのが弓を引く上半身の故障だった。2016年に右肩の筋断裂の手術を受け、2020年夏に右腕のしびれの原因だった胸郭出口症候群の治療で左右の第一肋骨を切除した。
術後の秋に出場した全日本選手権では、初めて上位32人による決勝ラウンドへ進めなかった。2021年の全日本も予選落ち。世界選手権で銅メダルを獲得した2009年を最後にナショナルチームには入っていない。
そんな「どん底」へ向かっていたアテネ後だったが、還暦となった今シーズンは、久しぶりに上向きの手応えを感じているのだという。
「少し時間がかかちゃったけど、体が少しずつ復活しているんです」
10月上旬の栃木国体に東京の一員で出場し、成年男子の団体と個人で3位に入った。昨年の東京オリンピックで団体と個人の銅メダルだった国内の第一人者、古川高晴(38=近畿大職員/大阪)との対戦に手応えを感じたという。
「同点で、彼と同じパフォーマンスができた。彼は『10点の数は僕の方が多い』と言っていましたけど、僕からすると彼と同点になれたのはうれしかったですね。本当にずっとどん底を耐えてきましたから。
今年はぽこっ、ぽこっといい点数が出る。安定性はないんだけど、僕に上の波が来た時に、今のトップの人たちの下の波が重なると、年寄りながらもちょっと期待ができるんですよね」
東京都体育協会会長で、東京選手団の団長も務める立場なので、これまで国体には選手としての出場はしていなかった。それが7年ぶりに出場したのは、開催地が栃木県だからだ。
42年前、1980年の栃木国体でアーチェリーが正式競技となり、高校3年で出場して少年の団体と個人で優勝した。
「会長のくせして選手としてしゃしゃり出て、関東ブロックも勝ち抜かなきゃいけないし、団体戦だからみんなの足を引っ張らないようにしなくちゃと思うと、やっぱりちょっと硬くなる。
国体に出たおかげでプレッシャーというのを久しぶりに感じた。そういった点でも自分の中ですごくいいきっかけになった」
前回の栃木国体が開かれた1980年は、政府の方針により日本がボイコットすることになったモスクワオリンピックの年でもあった。初めてナショナルチームに入り、選考会4位でオリンピック代表の補欠に選ばれていた。柔道の山下泰裕さんらと参加を訴えたという。
「国際大会にも出だして、いろんな経験をさせてもらえるようになったスタートの年でした。ほかの競技団体のメンバーと一緒に、参加させてほしいと訴える場にも加わりました。山下さんとかみんな泣いていて、辛いよなって。僕は補欠でしたけどね。
次のロサンゼルスから参加し始めたから、商業主義のオリンピックがスタートしたタイミングに巡り合った。完璧なアマチュアリズムだと国家の支援がないとオリンピックへの派遣や開催ができないわけですよ。それだとスポーツ界が頭を下げてという体質になる。スポーツ界が自立へ向かい、そこから脱却できたことは、評価できると思うんです」