苦渋の選択だった洋服採用
それまで新政府の服制に洋服を取り入れようという議論はなかった。なぜこの段階でそれを採用したのか。彼らは幕末に攘夷の対象であった外国人の洋服に袖を通すことは好まなかった。しかし、公家たちが着る衣冠や狩衣などの装束も着心地が悪いと感じていた。旧藩士たちは苦渋の選択を迫られたのである。
政府内で主導権を握った旧藩士たちが洋服・散髪・脱刀を採用したのは、外見から身分制をなくすためであった。公家と武家の髷の違い、天皇から与えられた位階の上下によって着る色の異なる衣冠などは、四民平等とはかけ離れていた。したがって、公家・藩主・藩士といった身分の差、さらには農工商民との違いをなくしたのである。
洋服・散髪・脱刀は、世襲門閥(もんばつ)制による身分制から実力や能力を重視する四民平等へと時代が大きく変わることを示していた。そのため旧藩士たちは、月代(さかやき)を剃った結髪に二刀差し、羽織袴という出で立ちも捨て去ったのであった。
岩倉具視は息子の説得で洋装へ
明治4年(1871)11月12日で、岩倉具視(ともみ)を代表とする使節団が横浜を出発した。アメリカのサンフランシスコに到着すると、使節団の大使と副使は、現地の写真館で記念撮影をしている。木戸孝允、山口尚芳(ますか)、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通である。このうち大使の岩倉を除く4人の副使は、散髪でフロックコートを着ている。岩倉を含む全員がシルクハットと、革靴を用いている。大使の岩倉具視だけが公家特有の髷を結い、洋服を着ようとしなかった。
明治5年1月21日にワシントンに到着すると、25日にはアメリカ大統領グラントに国書を渡した。このとき大使は小直衣(このうし)、副使は狩衣、書記官は直垂(ひたたれ)を着ていた。当日の模様を大久保利通の息子である牧野伸顕は、「岩倉公は普段は羽織、袴で、公の場合は衣冠束帯を着けておられた。それだからホテルから正式の訪問に出掛けられる時などは、ホテルの周囲は見物だかりで大変な人出であった。まるで見世物か何かのよう」と回想している。岩倉の服装が珍しくて外国人が集まってくるという。
大久保と同郷の旧薩摩藩の出身でアメリカに駐在していた少弁務使・森有礼(もりありのり)は、岩倉の結髪と和装を快く思っていなかった。森は当時アメリカに留学していた岩倉具定(ともさだ)と具経(ともつね)に、父の具視を説得するよう依頼している。息子二人から説得されて岩倉も改心したようだ。明治5年2月6日にホテルで開催された晩餐会で燕尾服を着用している。そして2月17日にシカゴに到着したときには、公家特有の髷もなかった。
岩倉使節団の参加者は全員が散髪に洋服姿となり、帰国後に髷と和服姿へと戻ることもなかった(自宅や私的に和服を着ることはあったが)。
文/刑部芳則