過去の誤った道を
再び歩まないために――
『日本会議 戦前回帰への情念』『「天皇機関説」事件』『歴史戦と思想戦――歴史問題の読み解き方』(いずれも集英社新書)と、日本の立憲主義を脅かすさまざまな動きを精緻に読み解いてきた山崎雅弘さん。新刊の『未完の敗戦』(集英社新書)は、今般の東京五輪の開催を巡る論説などを通じて、いまだに根強く残る「大日本帝国時代の精神文化」の有り様を分析しています。なぜそのような精神文化が残存しているかといえば、「先の戦争における『敗戦』が、七七年後の今に至るまで、きちんとした形で総括されず、『完結』していないからではないか」と問いかけています。
折しも、ロシアによるウクライナ侵攻が世界中の注目を集めている現在、本書に描かれた「大日本帝国型の精神」は、日本特殊のものではなく、ロシアのプーチン政権にも大いに共通するところがあることがアクチュアルに迫ってきます。
聞き手・構成=増子信一
大日本帝国時代の国体思想と共通する
プーチンの考え
―― ロシアのウクライナ侵攻の最中に『未完の敗戦』を読ませていただきましたが、山崎さんが指摘されている「大日本帝国型の精神文化」とプーチン政権のものの考え方に多くの共通点があることに驚きました。
今回のウクライナ戦争を引き起こしたプーチン大統領の思考形態がどうなっているのかは、いろいろな人が分析しているところですけれども、その中でよくいわれるのが「ソ連時代の肯定」ですね。歴史教育において、ソ連時代の不都合な出来事を歴史から抹消し、ソ連にとっていいことしか書かずに愛国心を高める。もう一つ、プーチンはさらに遡ってロシア帝国時代の世界観を復活させようとしているとの見立てもあります。ウクライナもかつては大きなロシア帝国の一部だったのだから、ロシアもウクライナも一つなんだというふうな世界観が、プーチンの頭の中にはあるんじゃないかと。
実際には、その二つのハイブリッドだと思います。しかも、そのハイブリッドのやり方が、実は大日本帝国時代の国体思想と呼ばれた世界観とそっくりなんです。昭和の大日本帝国時代の日本も、自国がいかに偉大かということを、あたかも客観的な事実のように装うために、建国神話に始まり、過去の歴史において日本人の偉大さを高める材料になりそうなものをいろいろ継ぎ接ぎして、過去の伝統を継承しているかに見えて実はまったく別の、自国優越思想の世界観を極端な形で肥大化させていった。その結果、周囲に対する侵略戦争も「八紘一宇」という、世界を一つの屋根の下に収めるという夜郎自大な世界観によって正当化できるという思考に囚われていったわけですね。
そういう意味では、権威主義的な政治家、あるいは権威主義的な人間というのは、やはりやることが似通ってくるんですね。歴史はまったく同じようには繰り返されないけれども、ある種の思考の欠陥というのは時代を経てもそのまま継承されてしまうので、同じようなタイプの人間が権力を持つと、同じようなことをやりたがる。それは、おそらく歴史上何度も繰り返されてきたことで、いま目の前で起きていることも、その繰り返しの一つなのだろうという気はします。
―― たとえば、本書に書かれている特攻隊員の悲劇を美談に仕立て上げていくプロセスなどを読むと、いまのウクライナ問題がよく見えてくるところがあります。
歴史を学ぶというのは、形式的な年号や特定の固有名詞を覚えるものではなく、どういう経緯で、どんな現象が起きて、その現象を放置した結果、どんなことが起きたのかというプロセスをきちんとしたかたちで整理して、それを教育によって継承していくことなのだと思います。それをやらないと、同じような政治家が出てきたときに、また同じように騙されたり、煽動されることになってしまう。
いまロシア国内では、一部で反戦デモも起きていますけれど、それよりも大きな規模で、戦争を肯定するプロパガンダのキャンペーンが行われています。具体的には、「Z」という文字をシンボル化して、ロシア国営テレビのアナウンサーがZと書かれたTシャツを着たり、海外で試合しているロシアの選手が胸にZというシンボルをつけたりしている。
要するに、特定の文字が今のロシアでは戦争を肯定するシンボル、意思表示のかたちになっているのですが、あれとそっくりなことが、先の戦争中の日本国内でもたくさん起こりました。外国から経済的な圧力を受ければ受けるほど、逆に内部で結束してしまうという逆効果の面も、いまのロシアに起きつつあるのかもしれません。
そういう面では、経済制裁などで生活上いろいろ不便にさらされているはずの国民が、逆に、圧迫されることによって国内で結束し、非民主的な指導者に従う道を選ばざるを得ない北朝鮮とも、共通するところがあると思います。
つまり、本の中では「大日本帝国型の精神文化」という言い方をしましたが、それは何も日本に限ったことではなく、権威主義の一つのパターンとしてよく繰り返されるものなのです。