中学生・田臥が能代工に与えた衝撃
伝統ある能代工の体育館に戦慄が走った。
当時、1年生ながら1995年インターハイ優勝に貢献したガードの畑山陽一は、心底「やべぇ」と危機感を覚えたという。
「あの代は前田とか菊地とか、すげぇやつらが来るとは聞いていたんですけど、田臥は別格でしたね。『これは気合いを入れないとユニフォームを着られなくなる』と思いました」
先輩たちが衝撃を受けたのは、「突破練習」というガード専門のメニューでのことだった。ディフェンスふたりをひとりでかわしてシュートする。言葉にすると単純だが、これが能代工クラスとなるとハードルがぐんと上がる。
障壁役は、メンバー外ながら3年生の“ピラニア軍団”と呼ばれる、相手に食らいつきながら守るスペシャリストたちで、同学年で点取り屋の高橋尚毅やポイントガードの半田圭史ですら、成功は10本中6、7本。畑山も2、3本で上出来だったほどである。
しかも練習生は、股の間にボールを通して相手を抜き去るレッグスルーといった個人技を禁止されていた。洛西中で全国優勝を経験し、中学MVPにも輝いた前田ほどの実力者でも、1本を決めるのがやっとだったという。
一方で田臥は、それがあたかも容易であるかのようにピラニア軍団を抜き去り、あっさりとゴールを決めた。成功率は10本中8、9本。目撃者たちは、言葉を失っていた。
入学前からNBAスターとCMで共演
田臥が能代工の手練れたちを翻弄できた要因のひとつに、天性のアドバンテージがあった。
この時はまだ168センチだったが、リーチが「190センチ近くある」と言われるほど極端に腕が長かったのだ。中指の長さが手首から20センチ以上あるほど手のひらも大きく、足のサイズも最終的に29センチまで伸びた。身長以外はバスケットボールに適していたことを田臥自身も実感しているほどである。
「ディフェンスをやっていてもボールを奪いやすかったり、ドリブルでも相手を抜けたりとか、得した部分はあるのかなって思います」
地元の神奈川でバスケットをするものだと思っていた田臥は、名門から正式に誘われ、迷わず「行きます」と返事した。
この中学生が「バスケット界のホープ」だと断定できる所以は、それまでの実績や能代工の先輩たちを相手にしての度肝を抜いたプレーだけではなかった。
田臥はひと足先に“世界”に触れていた。進研ゼミのテレビCMで、当時ニューヨーク・ニックスのスタープレーヤーだったパトリック・ユーイングと共演する機会に恵まれたのである。
本来なら「中学MVP」の前田が出演するはずだったのだが、洛西中から許可が下りなかったため田臥にオファーが届いたとされている。とはいえ、何よりもその姿が日本全国に広まったことが大きかった。
「あのCMに出ていた中学生」
能代工に入学時点で、田臥はすでに全国区の選手となっていた。
(つづく)
取材・文/田口元義
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