♯2 高校バスケの名門・能代工で田臥勇太ら「5人中3人が1年生」。当時監督・加藤三彦が明かす“レギュラーから上級生を外した”意図 はこちら
24年前、田臥勇太3年時に「高校バスケ9冠」
能代工バスケットボール部で部長を務めていた安保敏明は、24年が経とうとしている今もあの狂騒を思い出すと鳥肌が立つと言う。
「東京体育館がすごい客の入りだったんです。最初は正面入り口から選手たちは入っていたんですが、途中から東京都の高体連の先生方のご配慮でマイクロバスを裏口に付けさせてもらえるようになって。あんな経験は後にも先にもあの時だけでした」
1998年12月。「ウインターカップ」と呼ばれる全国高校選抜大会(現在の全国高校選手権大会)での能代工は、それほど世間からマークされていた。
1967年の埼玉国体で初めて優勝してから49回の日本一を誇る、高校バスケットボール界では超がつく名門。その歴史のなかでも、エースの田臥勇太、シューターの菊地勇樹、守備の要の若月徹が1年生から主力を担ってきた98年世代の強さは圧倒的だった。
彼らが入学してからの能代工は、高校バスケットボールの主要大会であるインターハイ、国体、ウインターカップで全て優勝しており、98年でもすでに2冠を獲得していた。
3年連続3冠の「9冠」に王手をかけて臨んだこのウインターカップで、熱源となっていたのは田臥だった。
身長173センチ。バスケットボールにおいては小柄に分類される選手のプレーは異次元だった。代名詞となっていたノールックパスはもちろん、変幻自在のドリブルやステップワークで相手を翻弄する。そして、ダブルクラッチといったフェイントを利かせ、鮮やかにゴールリングを揺らす。そんな創造性あふれるパフォーマンスで観衆を虜にした。
準々決勝で6400人だった有料入場者数は、準決勝では9936人。大会関係者などを含めれば東京体育館メインアリーナの上限である1万人を超える数字であり、「消防法違反の恐れがあるから決勝では入場が制限された」と、まことしやかに囁かれるほどだった。
狂騒の渦中にいながらも、コートに立てば王者は無類の強さを見せた。8344人が見守る決勝戦でも98対76と市立船橋を寄せつけず、9冠を成し遂げたのである。同時にそれは、能代工にとっての「V50」も意味していた。