個でやっていく
竹山聖にとって大きな転機となったのは、京大を卒業後、東大大学院へ進学したことだ。当時、この選択は異例だったという。
東京では建築における「言葉」の役割が京都と違っていた。
〈建築家になるには文章が書けなければならない、というのは、東京では定説だった。磯崎新は言葉によって建築にこめた知的な企みを磨き上げ、その著『空間へ』は美術評論家の瀧口修造に「長い詩を読んだ」と評されていたし、概して建築家はみな文筆に長けていた。慧眼の隈研吾は当時から、文章とセットでないと建築は伝わらない、と公言していた。事実彼はとても文章が早く、うまかった〉(『京大建築 学びの革命』より抜粋。以下同)
生活の糧も「言葉」で稼いだ。
「この時期、親父が会社と喧嘩をして辞めたんです。京大にいたときは月に三万円ぐらい仕送りをもらっていたんですが、大学院ではそれもなくなった。家庭教師と塾講師の他、英語で書かれた外国の建築雑誌の記事を原稿用紙一枚一〇〇〇円か二〇〇〇円で翻訳していました」
最初に住んだのは板橋区役所前の六畳一間。奨学金とアルバイト代で家賃、生活費を全てまかなった。
「食費、生活必需品を含めて、一日あたり八〇〇円で凌がなければならなかった。缶コーヒーさえも買えません。本は買えないから図書館。交通費を節約するために下宿にこもって、借りてきた本を読んだり、翻訳したり。そのとき、人生で最も勉強したかもしれない」
卒業後、大学院生は建築関係の企業に就職するのが一般的だった。しかし、竹山はその道を選ばなかった。
「ちょうどオイルショックの頃で景気が悪かったんです。親父は大企業にいたのに、ポイ捨てのような扱いをされたことも頭のどこかにありました。塾講師のバイトで稼いでいたこともあり、最低限の生活ならば、最初からやっていけるんじゃないかと思ったんです。それで仲間と一緒に、設計やりますっていう名刺を作って設計事務所を始めました」
ぼくは場当たり的に生きている、楽天的なんですね、とひとごとのように笑った。
企業に属さない、個でやっていくという姿勢が竹山を鍛えた。
〈建築家、というのは仕事や職能というより、生き方なのだと思う。個人として生きる、自分の表現に自分で責任をとる、組織にもたれかからない。つまり自分の力で自分なりにやってみる。仕事の規模がある程度大きいから、もちろんさまざまな人たちと協働するわけだけれども、基本的に自身の存在に、表現に、責任をとる〉
仲間に助けられながら、建築家としてなんとか歩いていた竹山の背中を時代が押すことになった。日本がバブル景気に入ったのだ。
「八〇年代後半というのは、ファッション業界の景気が良くなって、まずはインテリア業界、そしてぼくたちのような若手の建築家にも仕事が回ってくるようになったんです」
あるインテリアデザイナーから、彼の顧客であるアパレルブランドの人間を紹介された。アルファキュービックの柴田良三である。柴田は竹山に「ゴルフやるか」と訊ねた。やりませんと答えると、残念そうな顔になった。ゴルフ場の建設を考えていたのだという。
竹山に運があったのは、そこで話が終わらなかったことだ。柴田は、スタッフに老舗旅館の娘がいて、建て替えを検討していることを思い出した。
「そこで(旅館の)ご主人と食事に行くことになったんです。しばらくしてから私にお願いしますという連絡が来ました」
建築家、竹山の名を知らしめることになった、神奈川県足柄下郡箱根町にある高級旅館「強羅花壇」の設計だった。