1989年に参議院議員となった猪木さんは、今度は政治家としてパキスタンと交流を行うようになる。試合ではなく外交のために何度もパキスタンを訪れ、そのたびに現地では大きなニュースになったそうだ。
「私がはじめて猪木さんを知ったのも、そんなニュースを見たことがきっかけですよね。高校生のころだったかな」
だからペールワン戦をリアルタイムで見ていない世代にも、猪木さんは有名なのだ。パキスタン人にとって、日本人といえば猪木さんなのである。
そして1991年、湾岸戦争のときのことだ。サダム・フセイン政権下のイラクで人質となった日本人を救出すべく、猪木さんは日本政府の反対を押し切り、バグダッドで「スポーツと平和の祭典」を開催。戦時下では異例のプロレス興行を行い、これを機にイラク政府は人質を解放したのだが、このとき猪木さんは事態打開につなげようとイスラム教徒に改宗した……という説がある。これをパキスタンのメディアが報じたことで、現地での猪木人気はさらに高まった。
「でも、もし改宗していなくても、パキスタン人は猪木さんを愛しているけどね」
パキスタン大使館のイベントで食らった「闘魂注入ビンタ」
そう話すハフィズさんは、23年前に来日。中古車の輸出ビジネスで成功を収め、パキスタンコミュニティ・ジャパンの代表として両国の交流に力を注いできたが、
「15、6年くらい前かな」
初めて猪木さんと会ったという。パキスタン大使館主催のイベントだったそうだ。
「本当に嬉しかったよ。あのときは猪木さんもまだまだ元気で、アレやってもらった(笑)」
〝闘魂注入ビンタ〟であった。食らうと「縁起がいい」「気合が入る」と、後年の猪木さんの代名詞でもあったビンタを、ハフィズさんも張ってもらったそうだ。
「それに、上野公園で開催したパキスタン・バザールにも猪木さんは来てくれたしね」
このときはあの「1、2、3、ダー!」も披露したのだとか。
こうして猪木さんは民間の交流イベントにも顔を出し、パキスタン大使館にもよく現れ、現地への外交訪問も繰り返した。
「国会議員になっても、パキスタンのことをずっと気にかけてくれたんです」
日本はインドとの関係を重視する立場のため、そのインドと対立しているパキスタンとはあまり活発な外交がない。そんな現状でも、パキスタンを大事に思ってくれた猪木さんは、パキスタンにとって日本との友好と外交の窓口でもあったのだ。
「だから、なにかセレモニーをやりたいと思っているんですよ」
ハフィズさんは言う。日本に住むパキスタン人も、日本人も、ともに訪れることができるような、追悼の催しができないか……パキスタンコミュニティ・ジャパンではそう考えているそうだ。
取材・文/室橋裕和