“荒法師”ジン・キニスキー

どうしてそんなにプロレスが大好きなのかと聞かれても、ぼくはこうこうこうだからとすらすら答えることはできない。気がついたらそうなっていた。中学生になっても、高校生になってもそれは変わることはなかったし、将来有望な若手選手たちがそうするように、ぼくもできるだけ早くアメリカ武者修行の旅に出たいと考えた。

ぼくは17歳で日本の高校をやめてアメリカ武者修行に出て、ミネソタ州ミネアポリスのハイスクールを卒業し、そのまま地元の大学に進んだ。19歳になったある土曜の朝、学生寮の大部屋のベッドでごろごろしながら、アメリカにいるうちにプロレスにもっと近づく方法はないものかあれこれ妄想した。

脳内ビデオを“早送り”すると、ぼくは大学に通いつつ、プロレスラーではなくて、プロレスライターになった。

1983年12月だから、いまから39年前のことだ。大学4年生(この時点で記者としてのキャリアは3年め)だったぼくは、『週刊プロレス』誌の特派員としてカナダのバンクーバーに出張した。猪木、藤波辰爾(当時・辰巳)、高田延彦(当時・信彦)ら新日本プロレス勢のカナダ遠征を現地取材するためだ。

試合開始時間よりも何時間も前にアリーナに着いたぼくは、カメラをかまえて選手たちが会場入りしてくるのを待った。この日のプロモーターのジン・キニスキーがバックステージ・エリアを忙しそうに行ったり来たりしている様子を目で追ったりしているうちに、しばらくすると猪木一行が通用門からバックステージに入ってきた。

「あ、アントニオ猪木だ」

キニスキーがかけ寄っていって猪木に握手を求めた。猪木は雑誌のグラビアに載っていたとおりの最上級のスマイルを浮かべ、キニスキーの右手を握り返した。

ぼくは“荒法師”キニスキーがテレビの画面のなかで若き日の猪木をぶん殴っているシーンをはっきりと記憶していたけれど、それはそれで昔のことなので、ぼくはぼくなりにそのあたりのつじつまみたいなものを深く追求するのはやめておいた。