祖父から受け継いだ家業で、スパイスの魅力を伝えたい

そしてミグラニ氏は日本人女性と結婚。孫にも恵まれた。インドと日本が混じり合う家庭でシャンカールさんは育った。

「肉じゃがや唐揚げなんかの和食のあとに、ダル(豆スープ)とチャパティ(パンの一種)が出てくるような家でしたね(笑)。それと、祖母が祖父から教わったというキャベツとじゃがいものカレーは本当に美味しかった」

やがてインドアメリカン貿易商会は、シャンカールさんの母が後を継ぐ。高度経済成長期、カレーは日本人にも広まり、インド料理店も急増し、一家の商いは順調だった。母はよくインドやシンガポールに食材の買い付けに行っていたそうだ。そして1983年、ミグラニ氏が逝去。

「子どもの頃はよく英語を教えてもらったんですが、厳しい人でしたね」

と、祖父の思い出を話すシャンカールさんが、家業を継ぐことを決意したのはアメリカに留学しているときのことだ。

「これだけ教育を受けさせてくれたし、成長させてくれましたし。そんな家族を大事にというか、一家代々の仕事として、やっぱり継がなきゃなって思ったんです」

帰国後まだ23歳の「3代目」は、レストランを営業して回った。ときには店の厨房を借りて腕を振るい、一家自慢のスパイスを使った料理をつくり「実演販売」してみせた。バブル崩壊直後で飲食業は苦しい時代だったが、それでも祖父の代から受け継いだ商品、スパイスには自信があった。

9月30日はクミンの日。日本のスパイスカレーブームの背景にはインド独立の志士の姿が_5
(写真提供:シャンカール・ノグチさん)

そして「30代半ばのころでしょうか」 カレー研究家の水野仁輔さんに誘われたことを機に、ユニットを組んでイベントごとにも顔を出すようになる。裏方の食材輸入業者から、表舞台へと活躍の場を広げていった。このとき本名の「野口慎一郎」だけでなく、「シャンカール・ノグチ」という名前も使うようになる。

「〝シャンカール〟は祖父が僕を呼ぶときのニックネームだったんです」

こうして「東京スパイス番長」の一員となったが、メンバーの中にはあのナイル氏の孫であり「ナイルレストラン」の3代目、ナイル善己さんもいる。ともにクラブのイベントなどにも乗り込みカレーを作るなど活動を続けているが、そこで提唱してきたのはスパイスの香り高さと味わいだ。ルーではなくスパイスを使ったカレーの美味しさを伝えたい。2013年には『東京スパイス番長のスパイスカレー』(主婦と生活社)を刊行。こうしてだんだんと日本に「スパイスカレー」という言葉が広まっていく。専門店も急増し、また個人でスパイスカレーを作ってみようという一大ムーブメントも起きた。

祖父はインド独立のために駆け、日本にスパイスをもたらし、初期インド料理界を支えた。その孫は、インド文化に日本人の発想を加えたスパイスカレーの美味しさと、つくる楽しさを伝え続けている。

「今後は、本もそうですが、スパイスにまつわるストーリーのようなものをつくっていきたいですね」

取材・文・写真/室橋裕和