シェルターであり、サンクチュアリだった

『スワンソング』は、「急速に消えていくアメリカのゲイ文化へのラブレター」だと語る監督。主人公のパットが青春を過ごした60〜70年代は、ゲイ解放運動が起き、運動が活発になればなるほど、バッシングも大きくなっていった時代だった。

その後、1980年代にエイズが蔓延。残念ながら多くの人がエイズの犠牲になり、コミュニティは壊滅的なダメージを受けたという。

「映画の中でも、パットはコミュニティを失い、愛する人を失い、周りとの関係も断絶していきました。今はゲイバーに行かなくてもインターネットで出会いを求めることができるし、社会の一員として普通に生きることができる時代。それと引き換えに、先輩たちが築いてくれたゲイ文化が失われつつあることに、僕自身、ほろ苦い思いも抱いています。そのことが、映画を作るきっかけのひとつでもありました」(スティーブンス監督)

「徹頭徹尾、死ぬときはひとり」バビ江ノビッチが語る、ゲイの老いと死_4
© 2021 Swan Song Film LLC

劇中にも、かつてドラァグクイーンとしてステージに立っていた懐かしのゲイバーを訪れ、閑散とした様子に驚くシーンが。それでも、ミラーボールの下で踊り、「これに飢えてたの!」と目を輝かせるパットはエネルギッシュだ。

「ゲイの解放運動が起こった60〜70年代の激動の時代に、ゲイバーはある意味シェルターになっていたと思うんです。外では自分がゲイであることを公言できないけれど、そこに行ったら同志に会える。自分を偽らずにいられる場所は、シェルターであり、サンクチュアリみたいな場所だったと思います」(バビ江ノビッチ)

「徹頭徹尾、死ぬときはひとり」バビ江ノビッチが語る、ゲイの老いと死_5
©2021 Swan Song Film LLC

今年47歳になるバビ江氏は、「ゲイ文化がアンダーグラウンドだった、ギリギリの時代に東京に出てきた世代」だという。

「私が初めて新宿二丁目に行ったのは19歳のとき。それまでも地元で男性と出会って一夜限りのセックスをすることはあったけど、何かそれはとっても虚しい作業で。性欲は満たされても、心は満たされなかったんです。でも二丁目に初めて出てきたときは、 “この街を歩いている人、このクラブにいる人、全員ゲイなんだ!”って思って感動したし、ものすごくエンパワーメントされましたね。本当の家族や地域や学校では得られなかった密なコミュニティを、自分達で新たに組み直す作業をしてきたんだと思います」(バビ江ノビッチ)