「夏まで生きとれるか……」

竹森は、驚きつつもこの結果を重く受け止めた。「高齢だから、というだけでは説明がつかない。しかも、甲状腺機能低下症などそんなに一般的でない病気も多い」。

原告らの健康状態が客観的に裏付けられたのは、裁判長らの訴訟指揮があったからに他ならない。国側が「原爆放射線に被曝したことによる漠然とした健康不安や抽象的な危惧感」は、被爆者援護法による保護の対象ではないと主張していたことを挙げて、竹森が言う。

「単なる危惧感じゃないんですよ、現実に被害が出ている」

広島地裁の審理は、診断書の提出から4カ月後に結審するが、高島はこの時すでに、どんな判決を書くか決めていたのかも知れない。原告らの11障害発症は、後に重要な鍵を握る。

診断書の提出を終え、審理はクライマックスを迎えようとしていた。2019年10月には原告11人と、広島大学名誉教授の大瀧慈、琉球大学名誉教授の矢ヶ﨑克馬に対する証人尋問があった。

その後、双方が最終準備書面を提出して翌2020年1月20日、結審。判決言い渡しは7月29日とされた。75回目の原爆の日まであと8日、という日取りだった。

原告らは、期待に沸いた。

2009年、原爆症認定を巡る集団訴訟で、8月3日に国側が19連敗目となる熊本地裁判決が下されると、3日後に広島を訪れた首相の麻生太郎は控訴見送りを表明。麻生と日本原水爆被害者団体協議会は、救済策を盛り込んだ確認書に署名した。

この時のように事が進めば、理想的だと思った。「原爆の日」直前に原告全員を被爆者と認める判決が出れば、国に政治判断を迫りやすい。結審後の報告集会で竹森は、「8月6日を迎える前に、全面勝訴の判決が出ることを期待したい」と、明るい声で述べた。

一方で、懸念もあった。

一人を除く原告全員が「11障害」を発症していた事実は、原告らの深刻な健康状況を物語っていた。無理を押して裁判所を訪れたがために傍聴中に体調を崩し、それがもとで他界した原告もいた。判決までの半年は、原告らにはとても長く感じられた。

「夏まで生きとれるか……」。多くの原告が顔を曇らせた。

原告団副団長で、94歳になっていた松本正行がマイクを握る。「この裁判で『真実』が明らかになったんです。私は、大きな期待を持っている」。両手に握った杖で体を支えないと歩けない状態だったが、話しぶりは明瞭で、力強かった。松本の言葉には大きな拍手が送られ、原告らは夏まで生き抜く覚悟を決めた。

しかし、松本はこの時すでに、相当な無理をしていたに違いない。椅子の背もたれに体を預けて座る姿はどこかぐったりとし、肩で息をする場面もあった。

連絡協議会発足以来の仲間である牧野一見には、体調の変化を吐露していた。この裁判期日の直前、電話で「夕べはご飯が食べれんかった。ちょっと吐き気がして、病院にも行かれん」と打ち明けていた。