最年長の原告は判決を見届けることなく……
松本は、腎臓病を患っていた。結審の2週間後に容体は急変し、安芸太田町内の病院に入院。「絶対に勝訴する」。まだ声を出せた頃、松本は家族や仲間にそう確信を述べていたが、まもなく言葉を発することもできなくなった。
2月、見舞いに訪れた牧野の手を、松本は堅く握って離そうとしなかった。牧野は、「頑張って元気になってよ」と握り返した。松本は何か言いたげだったが、その喉が震え、音を発することはとうとうなかった。
3月8日、松本は腎不全で、94年の生涯に幕を閉じる。判決まで、あと4カ月だった。
通夜、葬儀には100人以上が訪れ、連絡協議会と弁護団の花が供えられた。葬儀場では、長辺が1メートルほどもある大きな広島県の地図が、参列者を迎えた。「黒い雨降雨地域図」と上部に大きく記され、宇田雨域がカラーペンで描かれていた。
何十年も前に作成したものなのだろう、色あせてはいたが細かな字で「ザーザー降り」「夕立のような雨」などと書き込まれている。降雨図の側には、精悍な顔つきで正面を向く松本の写真の他、連絡協議会が2012年に発行した冊子『黒い雨 内部被曝の告発』が飾られていた。
松本の部屋からこれらの資料を持ち出し、展示した長男の信男は、「『黒い雨』は父のライフワークでした。判決を見届けられず、残念だったろうと思います」とあいさつした。
原告の姿も、多くあった。松本は裁判期日のたびにマイクロバスを手配し、山間部に住む原告を率いた。そのバスがなければ、傍聴できなかった原告は多いだろう。松本は、すでに判決日のバスの手配も済ませていたが、自ら引率することは叶わなかった。
参列者は「松本さん、ありがとう」と声をかけ、手をさすり、白く冷たくなったほほにあたたかい涙を落とした。松本に誘われて原告に加わったのは、66人。最大88人いた原告団の、大部分を占めていた。
「今、あなたの訃報を聞き、私の片腕をもがれたような思いに沈んでいます」。弔辞を読む牧野の声が、満員の葬儀場に響く。
牧野と松本は1973年、1週間違いで隣り合う町の町議に当選。32年間議員活動を支え合い、連絡協議会も結成当初から率いてきた。松本がこの世から去り、あの頃から運動を続ける者はもう、牧野だけになってしまった。
「松本正行さん」。牧野は、優しく穏やかな声で、松本の遺影に語りかける。
「あなたは、黒い雨連絡協議会の役員として、集団訴訟では副団長として、この闘いの先頭に立ってこられました。原告団の中でも最年長でありながら、原告の原爆手帳申請書類や陳述書の作成作業、裁判傍聴参加の案内や貸し切りバスの手配などを一手に引き受け、その献身的な活動ぶりに、関係者の誰もが、頭の下がる思いを抱きました。
裁判もこの1月に結審して判決が7月29日と決まり、あなたは勝訴を確信しておられました。その判決を見ることなくこの世を去ることに、大変悔しい思いをされていると思います。松本正行さん、私たちはあなたの思いを受け継ぎ、原告勝訴のために最後まで頑張り抜きます。長い間のご奮闘、本当にお疲れ様でした。ごゆっくりおやすみください」
松本を含め、地裁判決までに16人が他界した。4人の遺族が訴えを取り下げ、84人の原告で、夏を待つこととなった。
取材・文/小山美砂 写真/共同通信社