ゾーンに入ったようなドライブ感の中で

上田 先ほど川村さんがおっしゃっていた、作らないと手が震えるというのは、ある意味では病気ですよね。

川村 本当にそう思います。でも考えている時だけはむしろ健康なんですよ。それができないと逆に病気になってしまうという病気(笑)。

上田 僕もその感覚はよく分かります。僕は小説を執筆する時、毎日「5,000字は必ず書く」というルールを自分に課しているんです。その方が居心地がいいんです。

川村 毎日5,000字はなかなか書けないですね。そういえば、大長編を出されると聞いています。

上田 今年中を目指していますが、原稿用紙に換算すると1,200枚ぐらいあるような、結構なボリュームになりそうです。

川村 1,200枚! それはもう、完全に狂っていますね(笑)。お互い相当な重病に罹患しているのかもしれません。毎日コンスタントに5,000字を書かれるんですか?

上田 基本は5,000字ですね。ただ、1日に1万字くらい書くこともあります。10日間あれば10万字、つまり一冊の本が書けてしまう計算です。実際に、8日間くらいで一気に書き上げた作品もありました。

川村 ええっ、8日間で一冊分の原稿!?

上田 もちろん、その後で何度も何度も推敲して直しますけどね。でも、個人的にそういう、無茶な勢いで一気に書き切ることに、ある種のロマンを感じるんです。
 例えば、石原慎太郎さんが代表作の『太陽の季節』を、ほぼ一昼夜か2日くらいで一気に書き上げたという有名なエピソードがあります。僕はああいう、ちょっと中二病っぽい、でも作家がゾーンに入ったようなドライブ感の中で物語を書く現象に興味があります。その方が意識の深いところから言葉を引っ張り上げられるような気もするんですよね。
 川村さんの『HIDARI』の脚本は、最初の構成やセリフの執筆に、どれくらいの時間をかけられたのですか?

川村 『HIDARI』は現在、劇場用の90分の脚本を書いているのですが、かれこれ2年以上修正を続けています。ともかく初めて書く脚本なので、脚本のフォーマットから、何が書かれている必要があるのかまで全部1から勉強しつつ書いてるので凄い時間がかかってしまって…。しかも今回は「世界でヒットするような映画を作ろう」という目標でスタートしたプロジェクトだったので、脚本もまず英語で書いているんです。それを、日本語に翻訳して、細部を調整していくという少し特殊なプロセスを踏んでいます。最終的に英語版をメインにすることや、海外のスタジオに売り込むために、英語での構成やセリフのテンポ感、ユーモアのニュアンスを大事にしたかったんです。
 僕が一番最初に書いた初稿は、やりたいアイデアを全部詰め込んだ結果、長すぎて2時間半を超えるような分量になってしまって(笑)。プロデューサーからは「5分のパイロットフィルムを作ろうって言っているのに、なんで2時間半の脚本書いてるんだ!」とツッコまれました。その後も、諦めずに脚本を直し続けていて、今は17稿目くらいになっています。

上田 17稿ですか。それは気が遠くなるような回数ですね。

川村 スープを継ぎ足すように、アイデアを足したり引いたりしながら、もう2年近く脚本と向き合っています。ただ、物語の核となる「初期衝動」の部分は、やはり最初の1ヶ月くらいでガッと書き上げた骨子がそのまま生きていますね。

演劇と純文学との親和性

──上田さんは小説だけでなく、演劇にも関わっていますよね。この秋には、ご自身の作品『キュー』が舞台化されますね。上田さんは演出の白井晃さんと共同で上演台本も書かれています。

上田 『キュー』の舞台化は、実はもともと4年前に立ち上がったプロジェクトだったのですが、当時はちょうど新型コロナウイルスの感染拡大の時期と重なってしまいました。それで、大勢のキャストやスタッフが密な空間に集まって芝居を作ること自体が不可能になってしまったんです。
 そこでプロジェクトの在り方を見直す中で、『キュー』の世界観からドロップアウト的に生まれた作品を高橋一生さんの一人芝居の舞台『2020(ニーゼロニーゼロ)』として上演する形になりました。一生さんは一人で100枚程度の原稿を背負うことになったんで相当大変だったと思います。
 演出を手がけてくださった白井晃さん──俳優でもあり、世田谷パブリックシアターの芸術監督も務められています──が、コロナ禍が明けた後も「どうしても、あの壮大な『キュー』の全体像を舞台化したい」という情熱を温め続けてくださっていて、今回ようやく実現することになりました。
 瀬戸康史さんが主演、有村架純さんらの共演で、東京芸術劇場でこの秋に上演が決まっています。

川村 すごく面白そうですね。でも、小説のかたわら、脚本を書かれるのは大変では?

上田 舞台にするにあたって、自分自身がかつて書いた小説を疑ってかからないといけないわけで、そこはまた別の頭の使い方になりますね。できあがっている小説を一回壊して、それでも残った真実のようなものを拾い集めて再構築する仕事なので、辛くもありますが、楽しくもありますね。

川村 面白いですね。脚本は何稿くらい重ねられたのですか?

上田 今回の本公演に向けては、すでに3稿、4稿と重ねていますが、4年前の実現しなかった時の書き直しも含めると、トータルで9稿、10稿近くまでいっています。

川村 やはりそれだけ稿を重ねるわけですね。

上田 大勢の人が関わりますからね。でも、演劇に関わって気づいたのは意外と純文学と相性がいいということなんです。
 例えば、「ここに塔がある」というセリフがあった場合。映像なら塔がなければ成立しませんが、舞台だったら、そこに何もなくてもいいんです。俳優の演技とセリフで、観客に「ここに塔があるのか」と納得してもらえればいい。言葉と俳優の身体で、観客との間に「共同幻想」を作り出す。演劇は実は自由度が高い表現なんです。

川村 たしかにそうですね。映像は具体的に目に見えるもので表現するので、情報量が多い反面、どうしてもイマジネーションの余地が減ってしまうところがある気がします。小説には高次のイマジネーションが存在しうると思っていて、そこはなんていうか、映像では勝てないなと感じています。そう考えると、演劇は映像よりも小説寄りの表現手法なのかもしれないですね。

生成AIの時代に表現することとは

上田 今日は個人的に川村さんと話したいことがあったんです。これからのクリエイションを語る上で避けて通れないのが、生成AIの台頭です。
 AIがこれだけのスピードで学習し、文章を書き、絵を描き、映像を作れるようになっていく時代において、僕たち表現者は、自分たちの創作活動をどう位置づけていけばいいのか。川村さんはどう考えていらっしゃいますか?

川村 僕は今のところ自分の作品の「アウトプット」にはAIは使わないですが、根本的には「pro-AI」、つまりAI肯定派なんじゃないかなと思っています。日々の創作活動のリサーチだったりデザインワークのトライアル&エラーといった制作過程においては、AIをツールとして積極的に活用しています。
 テクノロジーの歴史を振り返れば、一度生まれた圧倒的に便利な道具を、人類が手放すことは絶対にありません。ですから、AIを敵視して排除するのではなく、いかに自分たちの「新しい手足」として安全かつ便利に使いこなすのか、という視点に立つべきだと思っています。
 ただ、現状の生成AIがアウトプットする表現、例えばAIに書かせた小説や、AIが生成したビジュアルというのは、どこか小綺麗で最大公約数的であり、人間の心の深い部分を揺さぶるような、本当に強度の高いモノにはまだ到底届いていないなと感じます。
 もちろん、この先AIがさらに学習を重ねて、人間の感情の揺らぎや「愛しさ」「気まずさ」「不条理」すらも精巧に模倣できるようになる日が来るかもしれません。そうなった時に、僕たちが生み出すクリエイションの価値は一体どこに残るのか。僕は「身体性」と「プロセス」が価値を持つようになるんじゃないかと思っています。僕らが肉体というものを持っている限りは、そこに価値が戻ってくるというか、この人がやってるから見に行くとか、この人がこういうやり方で作ってるからこそ、お金を払いたいということになるんじゃないかと。

上田 「身体性」と「プロセス」が重要視されるということですか。

川村 そう思っています。例えば『HIDARI』は木彫り人形を少しずつ動かして撮影し、まるで生きているように見せるコマ撮りアニメーションです。1秒間の映像を作るために、人間が実際にライトを調整し、人形をミリ単位で手で動かし、シャッターを切るという作業を24回繰り返します。1日で撮影できるのは、わずか3秒です。
 この気の遠くなるような膨大な時間を費やして、生身の人間が身体を動かして制作したというプロセスと、それによって生まれるクオリティ、そしてそれをやってしまう人間の執念や体温のようなものにこそ価値があるんじゃないかと。これからのAI時代、人々はそういうものに価値を見出し、お金を払いたい、支援したいと思うようになるのではないでしょうか。
 演劇も同じですよね。わざわざ特定の時間、特定の劇場に生身の観客が集まり、目の前で本物の人間が汗を流し、一回限りの声を張り上げているんですから。
 テクノロジーが進化して、すべてのフィクションがデジタルで無限に、かつタダ同然で生成できるようになったからこそ、逆にその「身体性」と「プロセス」の価値が、かつてないほど高まっていくと信じたいですね。

上田 なるほど。僕が半ば巻き込まれるように舞台に関わるようになったのに妙に腑に落ちるのは、そこに何らかの意味や必然性があったからかもしれません。
 AIがどれだけ高度な言語モデルを構築しても、僕たち人間が身体という不自由な器を持ってこの世界に生きている以上、身体を通じてしか得られないリアルな実感は奪われることがないと信じたいですね。

(2026.7.8 神保町にて)

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