空襲被害者の救済を阻んできた「国の論理」
「やっと入口にたどり着いたと思ったんですけれど、実際には全く扉は開かれませんでした。あきらめるわけにはいかないと、そう言いながら、どんどんみんな高齢化して活動が難しくなっていってます」
そう焦燥感を口にするのは、1945年3月10日の東京大空襲で母親と幼い2人の弟を亡くした河合節子さん(87)だ。当時5歳だった河合さんは親戚に預けられていたため難を逃れ、顔などに大やけどを負った父親と戦後を生きてきた。
河合さんが言う「入口」とは、先の国会終盤の7月8日に参議院の野党7党1会派(国民民主、共産、れいわ新選組、立憲民主、公明、チームみらい、社民、沖縄の風)が空襲被害者らの救済法案を提出したことを指す。
法案は、真珠湾を攻撃した1941年12月8日から降伏文書に調印した45年9月2日の間に空襲や艦砲射撃などの戦闘行為で心身に障害を負った生存者に50万円の一時金を支給し、政府が空襲などの被害の実態を明らかにする調査を⾏なって結果を公表するとともに、死没者への追悼の意を表す事業を実施することを定めるものだ。
国は元軍人・軍属やその遺族には恩給や年金などの援護を行ない、死亡や傷病に報いてきた。だが軍から要請を受けた「準軍属」と呼ばれる民間人を除き空襲や沖縄の戦闘で死傷した市民と遺族への補償は拒んできた。
「戦争犠牲は国民が等しく受忍しなければならなかったもので、補償は憲法の全く予想しないもの」(1987年最高裁判決要旨)との“戦争受忍論”と呼ばれる考えを続けてきたからだ。












