解剖は『答え合わせ』ができる

ごくまれにですが、ほかの専門分野の医師が法医学者に転身することもあります。

救急医だったBさんは、法医学の世界に鞍替えした経歴のもち主です。生命の危機に瀕した患者に緊急処置を行うことが多い救急医は、それこそ「死にゆく人」を数多くみる最前線のポジションです。

しかし、1分1秒を争う現場ですから、「救命できなかった患者」に関しては、立場上、死因を究明することまではできなかった。

Bさんの場合も、「結局のところ、なにが死因だったのかは不明だが救命できなかった」とのやりきれなさが積み重なったことが、死因の謎を解き明かせる法医解剖医になった動機の1つだったそうです。

救急外来には、さまざまな緊急症状の患者が運ばれてきますが、現場は常に「緊急事態」です。身体の中で大量出血している患者の場合、どこの血管が破れているのかを血の海の中でまず把握しなければならないのですが、それが難しい。

吸引しても吸引しても、出血源がわからず、失血死してしまうケースもあります。けれども、皮肉なことに死体となってしまえば、もはや処置を急ぐ必要はありません。

死体は出血しませんから、法医解剖医は溜まった血を拭き取り、ゆっくりと出血源を探し当てて、「なるほど、この血管が破れていたのか」と検証できる。

後日、救急医、司法解剖医、警察、消防が集まる症例報告会やカンファレンスなどで、「今後、類似の事故では、この血管に注意するといいですよ」とフィードバックをすることによって、各自の現場にも学びが還元されます。

救急医が解けなかった謎を、法医解剖医が探し出し、答え合わせができる。死体からわかったことを、生きている人間にフィードバックできる。これもまた法医解剖医の存在意義でしょう。

ちなみに、死体がおもな対象となる法医学ですが、中には生きている人を対象にしている「臨床法医学」という分野もあります。

臨床法医学に含まれるのは、児童虐待や性犯罪などです。虐待や暴力による損傷の原因や時期、治癒の見込みを法医学的に評価することで、裁判の証拠として使用されます。

海外では一般的な臨床法医学ですが、日本ではまだあまり体系的に確立されていないため、残念ながら積極的には行われていないのが現状です。

文/飯野守男 写真/shutterstock

法医学教授が教えている 死体の授業
飯野守男
法医学教授が教えている 死体の授業
2026/5/26
1,870円(税込)
240ページ
ISBN: 978-4868010579

「交通事故よりお風呂が危ない」
ドラマ監修も務める法医解剖医が教える
あっ! と驚く死体の話

解剖料は1回〇万円、医療ミスを暴いた解剖例など、
知られざる法医解剖医の仕事から、
「舌を噛んで自殺はあり得るのか?」
「刺されたらナイフは抜くべきか?」といった
ドラマやマンガで目にする描写のウソ・ホントまで。

法医学者だから知っている実際の解剖事例をもとに、思わず人に話したくなる
死体のリアルな知識がつまった1冊です!

■内容
第1章 解剖室へようこそ ――死体はこうして切り開かれる
死体はどのように解剖されていくのか
死体の「解剖料」はどこから、いくら払われるのか?
解剖が最も大変なのは「めった刺し」事件
刃物をもった人間に襲われたら「胸」と「首」を守れ
やわらかい臓器、固い臓器
高温多湿の日本でミイラ死体はできるのか
口の中にウジがびっしり詰まった腐敗死体
法医解剖医の解剖器具リスト

第2章 解剖しないとわからない 「死因」のケーススタディ
Case1「入れ歯で死ぬ」
Case2「風呂で死ぬ」
Case3「3食フライドポテトで死ぬ」
Case4「誤飲で死ぬ」
Case5「便秘で死ぬ」
Case6「病院嫌いで死ぬ」
Case7「鍼で死ぬ」
Case8「夫婦で死ぬ」
Case9「溶けて死ぬ」
Case10「山で死ぬ」

第3章 ドラマや漫画で描かれる「死体」の嘘
Q.「喉笛を掻っ切る」と本当に血が勢いよく吹き出るのか?
Q.舌を噛み切っての自殺は本当にできる?
Q.死体から目玉をくり抜けるか?
Q.「肺に穴が開いて、少しずつ窒息死するのが最も苦しい死に方」は本当?
Q.ナイフで刺された! すぐに抜くべき?
Q.銃で撃たれた! でも弾が貫通していれば、死ぬ可能性は低い?
Q.死体を隠すには、コンクリート詰めがいい?
Q.「重要な手がかりを握ったまま死んでいる」死体は実在するか?
Q.雷が落ちると、丸焦げになって死ぬ?

第4章 死体と向き合うことで見えてくる世界
『アンナチュラル』にハマって法医学を専攻、テレビ局に入社した卒業生
「死体は得意ですか?」「いいえ、苦手です」
医学部生だって解剖で倒れる
疑い深い人間ほど、法医学者に向いている
解剖は『答え合わせ』ができる
最短ルートで教授になりたい人は法医学が穴場?
死体の数が「解剖格差」に直結している日本
嬰児殺が多いインドネシアの法医学事情
死んだ肉体はどのように腐っていくのか
死体の腕を切る、人工呼吸器を外す、とことん合理的なオーストラリア
法医学者に完全犯罪は可能か?

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