人間のいいところよりも悪いところを書きたい『わたしを庇わないで』石田夏穂 インタビュー_1
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自分を庇ってくれるいい子ちゃんが嫌いだった

──表題作の「わたしを庇わないで」は、太っているアヤノが主人公。勤めている水産会社の商品PRのため、取引先の飲食店での食事シーンをSNSに投稿する仕事をしています。当初は美人の先輩が食べているところをアヤノが撮っていましたが、ある店で彼女が食べる役になります。すると話題になり「いいね!」が爆増。彼女は体型を逆手に取り、自らを〝デブ〟と称して投稿をエスカレートさせていきます。この小説の種はどこから浮かんだのでしょうか。

 相手に対してネガティブとされる言葉は使ってはいけないという発想は、面と向かって言う以上にひどいのではないかと、かねがね思っていたんです。それと、この小説が掲載された『すばる』が笑いの特集だったので、主人公が意図せず笑われてしまうシーンを書きたいと思いました。太っている人はただ食べているだけで、何だか痩せている人よりおいしそうに見える。それを見た人が「おいしそうだね」と言うのに悪意はない。でも本人は特においしいとは思っていないシーンです。

──現代では太っている人をデブと言ってはいけないとされています。でも言葉自体はよく知られているし、太っているのは見えている現実なので、口に出さなくても心の中には浮かんでいることもありますよね。しかし言わない。そういうルッキズムにまつわる矛盾を突く話でもあります。

 たとえば、太っている子どものわたしに「石田はデブ」と言う子がいたとします。すると「やめて。夏穂ちゃんはデブじゃない」と庇ってくれる、やさしい子が出てきます。そういういい子ちゃんが嫌だったんですね(笑)。わたしが太っている自分を気に入っているかもしれないのに、庇われるとこちらが劣勢なのが確定してしまいます。

──そういう庇う行為が致命的な矛盾だとアヤノは指摘します。近年は自分らしさを肯定しようという動きがある一方で、美は尊いという文脈で、あらゆる広告などから受ける「痩せていないとダメ」という抑圧も強く感じます。

 いくら太っているあなたのままでいいと言っていても、世の中の大半はそうは思っていませんよね。カロリーはこうやって消費しようとか、むくみはこう撃退するとか、デブではいけないとするさまざまな表現があります。その嫌~~~な感じを書きたかったんです。大多数の人間は目で見てものを判断します。だから人は見た目じゃないというのは噓だろうなと。昔から人間は性悪(せいあく)説だと思っているんですよ。

──それは、幼い頃からアクションヒーローものや、勧善懲悪のドラマを見てもそう感じていたんですか?

 そうですね。たとえば大河ドラマの主人公は大概「(いくさ)のない世の中を作りたい」と言いますが、絶対噓(笑)。出世したい、支配したい、領土が欲しいと正直に言えばいいのにって。小説でもいい人が出てくると噓だなと思ってしまいます。人間は打算的だし、得をしたいし、発言にも裏があるはずなので、純粋な人はあまり信じられない。そうじゃないでしょうと言ってやりたい意地悪な心があります。

──噓や欺瞞が苦手なんでしょうか。

 そうかもしれません。ストレートに本音を言えない気持ちもわかるんですが、ついそういうことを思ってしまうねじれた性格で(笑)。偽善が嫌いなんでしょうね。

美しいことは生き物としてもっとも強力

──「小人二十面相」もルッキズムについての小説と読むことができます。まず、主人公の(のぞみ)小学六年生の女の子。小説の中心に子どもを据えるのは、石田さんの作品では珍しいと思いました。

 とくに積極的な気持ちではなかったのですが、何か新しいことをやってみたくて。

──望たち仲良しグループ六人で、卒業記念にディズニーランドへ行く話が持ち上がります。でも望は七五三写真の写りの悪さから自分の顔が嫌いになり、それ以来鏡やガラス、写真に映った顔を見るのを必死に避けて生活しています。ディズニーに興味がない上に、そんなところに行けば写真を撮られまくるため、全然乗り気ではない。この設定がユニークでした。小学六年生だと思春期の入り口で、顔のディテールや体型などの見た目が非常に気になる年頃ですね。

 そうですね。あと、ディズニーランドに行く話にしたかったので、卒業の年の春休みがいいなと。

──なぜディズニーランド?

 子どもの頃に、友達の間でディズニー外交みたいなものがあったんですよ。サラリーマンと同じく、誘われたからにはみんなで行かなきゃいけない、という儀式のようなものが。それでディズニー全般にまったく興味がないのに、これまでなぜか二十回くらい行っています。わたしは埼玉出身なのですが、早朝に関東近郊の武蔵野線に乗って仕方なくディズニーに行くのは、出勤するサラリーマンと似ていて、そういう気持ちを書きたくて。

──なるほど。だから望は妙に老成したところがあるんですね。でも一方では年相応に見た目を極端に気にしています。ところが卒業アルバムの写真を、友達が勝手に開設したインスタグラムで見ると、自分が美少女に写っている。映り込むものの素材や曇り具合、顔の角度など、条件によってかわいくなったりブスに見えたりすることに気づきます。

 誰でもそうですが、鏡の位置や角度とかで、よく見えるときと悪く見えるときがあります。それを書いたら面白いかなと思いました。

──マクドナルドのトイレの鏡はブスに見えるから避けるとか、母親の無印良品の鏡は美少女に映るから頻繁に見るとか、妙に細かいこだわりは彼女にとっては切実なのにだんだん滑稽に感じてきます。自分という実像はひとつだけで、映るものはすべて虚像であるにもかかわらず、人間はそれに振り回されてしまうものです。

 どうしてでしょうね。でも美しいということは、生き物としていちばん強力ではないかと思います。お金がたっぷりあっても価値が暴落するかもしれないし、家を持っていても災害でなくなるかもしれない。富豪の配偶者がいても離婚する可能性がある。でも見た目は自分から離れないもの。見た目がいいというのは、究極的に価値がある気がします。

──そこはやはり、中身ではなく見た目なんですね。

 中身ってまったく信じていないんです。

──望はインスタグラムの写真加工についても、似合う服を着ることやメイクと同じで、いけないことではないと言っています。写真加工はアプリの登場で当たり前になりましたし、整形もカジュアルに行う人が増えていて、タブー視されなくなってきました。

 メイクは噓だけれど、整形は噓ではないような気がします。

──見えているものを信じる、ということでしょうか。

 そうですね。人はどれだけ愛想が良くても、何を考えているのか、外からではわかりません。よく見た目と中身は並べて語られますが、わたしは対比できないと思います。