第四十五回すばる文学賞の佳作に選ばれ、第一六六回芥川賞候補となった小説『我が友、スミス』。鍛錬による強い筋肉のみならず女性美までもを求められる、女性のボディ・ビルの世界の虚実を描き、描写の細かさや織り込まれたユーモアなどが選考委員から高く評価された。この対談では、作品を強く推した選考委員の一人、翻訳家の岸本佐知子さんと作者の石田夏穂さんが、本作品の執筆の経緯や背景、創作について語り合う。
構成/綿貫あかね 撮影/中野義樹
ディテールの喚起力
岸本 このたびはおめでとうございます。今回のすばる文学賞は受賞作と佳作の二作受賞になり、この『我が友、スミス』も「すばる」に掲載されて芥川賞候補になりました。
石田 編集部の方から佳作になったとの知らせが届き、とても驚きました。その後、芥川賞候補に入ったと聞いてしばらく経ちましたが、まだあまり実感が湧いてきません。
岸本 選評でも書きましたが、私は最終選考に残った五作のうちで『我が友、スミス』を一番面白く読みました。とにかくオープニングでいきなり引き込まれてしまって。私もそうですが、ボディ・ビルは世の中の大半の人にとっては未知の世界。それなのに細かく書き込まれたディテールで、その知らない世界の情報がしっかりと伝わってきて、なおかつイメージが喚起されてなめらかに読まされてしまう。その吸引力といったらなかったです。
石田 ありがとうございます。
岸本 私、翻訳の師匠に「小説の魅力はオープニングに詰まっている。だから一行目でどんな話なのかを読者に想像させるように訳しなさい。作家は一行目から自分の描きたい世界に引きずり込もうとしているのだから、そのインパクトをちゃんと感じなさい」といつも言われていて、この作品はまさにその見本のようです。私は文学賞の選考委員になってからまだ日が浅いのですが、これがもし英語で書かれていた場合、自分で訳したいと思うかどうかを選考基準の一つにしています。その意味で石田さんのこの作品は本当に訳したいと思いました。トレーニング・マシンの名前や筋肉の名称を調べるのは大変そうですが。
石田 本当に嬉しいです。
岸本 でもこんなに詳しく書き込んでいるのに、石田さんご自身はボディ・ビル競技をやってらっしゃらないんですよね。それなのに、どうやって大会までの準備や、本番の迫真のディテールを書かれたのでしょうか。
石田 私はジムには通っていますが、平均的な筋トレをしている程度で、むしろ通うのもときどきだるい、と思うくらいです。でも、そのジムの会員の中には私のようなトレーニーがいる一方で、大会を目指していると思しき方も多く通われています。大会が近づくと競技日程の掲示が張り出されるなど、関係のない自分にもさまざまな情報が入りますし、すごい高重量でトレーニングされている方も見かけます。あと、合同トレーニングやパーソナル・トレーニングも身近に目にします。明らかにその道で何年もやってきたとわかる人が、トレーニーとペアになってトレーニングしている。その光景にとても臨場感があって、小説のイメージが湧いてきました。
岸本 そもそもどうしてジムに通おうと思ったのですか?
石田 単純に運動不足を解消したかったんです。もともと怠惰な人間で、ガチなジムに通えば自分もそれなりにやるかな、という期待がありました。
岸本 まさかこんなものを書くとは思いもよらずに入ったんですね。
石田 そうでした。大会に出るためにトレーニングしている選手の方々を傍から見ていると、筋肉を作る以外にもたくさん頑張っていることがあるんだろうなと気づいて、それを書いてみたいと思いました。
岸本 でも、あのディテールの書き込みはちょっとただ事ではない感じを受けました。末尾に挙げてある参考文献も一冊しかないし。どういうことなんだろうと。
石田 日々のことをSNSで発信するトレーニーの方が結構多いんです。「今日は大会十五日前で、こんなトレーニングをします、こんなものを食べます」のように。
岸本 ではあの書き込みは、大会を目指すトレーニーに直接聞いたわけではなくて、文字情報からなんですね。驚きです。大会当日の舞台裏の準備の場面は本当にリアルでした。そういう情報も集めたのでしょうか。
石田 巷に流れている情報と、自分のイメージとを組み合わせて書きました。YouTubeでトレーニング方法をアップしている人も大勢います。
岸本 必要な情報をストーリー内に入れ込むのがすごくうまいですよね。読む側は知らない単語ばかり出てくるんですが、それが全然気にならなくてぐいぐい読ませる。今回❝パンプ・アップ❞という言葉を覚えました。この小説には、絶対ガチでトレーニングをやっていないと出てこない表現が使われています。重量の負荷がマシンで逃げて筋肉に届かないとか、筋肉が水っぽいとか。
石田 あれは自分の話も少し入っていて、それと想像を組み合わせて書きました。水っぽいというのはボディ・ビル業界では割と共通の認識、という理解です。
岸本 以前、トム・ジョーンズというアメリカの作家の短編集『拳闘士の休息』を訳しました。この本には、ベトナム戦争のものすごく血みどろの臨場感あふれる短編が何編か収録されているのですが、後で知ったところ、なんと彼はベトナム戦争に行っていなかったんです。そのときの驚きに匹敵するくらい、今びっくりしています。でも、そうやって文字情報と想像の組み合わせでこれだけすごいものが書けるなら、この先どんなものでも書けますね。
石田 そう言っていただけると励みになります。
岸本 これもよく翻訳の師匠に言われましたが、登場人物は全員魅力的であるべきということ。この小説の主人公であるU野、それからE藤やO島も、S子というちょっとチャラめの人でさえ魅力的。顔がはっきり見えていて寄り添いたくなります。登場人物でモデルにした人はいるのでしょうか。
石田 これという特定の人はいませんが、強いていうならジムで見かけた方々ですね。
岸本 では、ジムに来ている女性で、大会を目指しているすごく格好いい人がいるんですね。
石田 はい。そうした方々からはただ者じゃないオーラを感じます。
岸本 ではこの中に出てくる、たとえば筋肉増量期とか大会前の減量期というのは、ほぼ事実に近いのでしょうか。
石田 大会に向けた準備は個人によりけりですが、概ねそうだと思います。
真顔の文体に挟まれるユーモラスなたとえ
岸本 文章がとても面白いですよね。文体がポーカーフェイスというか真顔な感じなのですが、これは狙ってやっているのか、それとも素なのかがわからなくて。「スヌーピーの言う通り、我々は配られたカードでゲームするしかないのだ」とか、笑ってしまいました。なぜここでスヌーピーなんだ? と。
石田 主人公の気持ちになったときに出てきました(笑)。
岸本 「調整が阪神タイガースのマジック点灯のようにせっかち」とか「血管は令嬢のように細い」とか、たとえが面白くてたくさん書き写してしまいました。この文体は地声なんでしょうか。
石田 地声だと思います。読者としては真面目な堅い文章が好きなんですが。
岸本 どんな作品を読まれるのでしょうか。
石田 髙村薫さんの小説が好きです。ごく一般に髙村さんはユーモアの隙がないような文章を書かれますが、読む方はそうした作品が好きです。
岸本 髙村薫作品の感じを狙ったのにこうなったんですか?
石田 結果的に、こうなりました(笑)。
岸本 それは本当に得難い。選考委員の金原ひとみさんも選評で「久しぶりに小説でこんなに笑った」と書いておられました。だから、今のままの何ともいえない味わいをぜひ保っていってほしいと思います。
石田 書き終えて送ったときは、あまりにふざけすぎていて、これは純文学ではなくエンタテインメント小説なのかもしれないと思いましたが、そう言っていただけて嬉しいです。
岸本 これを書いているときはどういう気持ちでした? 楽しかったですか?
石田 楽しかったです。
岸本 そうですよね。楽しそうに書いているのがこちらにも伝わってきました。やっぱり筋トレがお好きなんでしょうか。
石田 好きですね。ジム通いは二年くらい何とか続いています。やっぱり、やればやるだけ身体が引き締まって、しっかり運動しているという肯定感が出てきます。仕事でパッとしなかった日や大失態した日も、せめて筋トレくらいはちゃんとやろうと思い、やったら、今日も頑張ったなあと思えます(笑)。