近代社会のありようが表れる裁判闘争
田中 さきほど訴訟を担当された弁護士さんのお話があったけれど、青木さんが取材に入られたのは、裁判が終わってからですか。
青木 その何年か前ですね。文雄さんの義理の娘さんにあたる大久保美江子さんが当時は南相馬市で避難生活を送っていましたから、まずは彼女に詳しく話をうかがいに行きました。
田中 あの裁判の判決はすばらしいです。よく書いてくださったと思って。
青木 ええ、かなりきちんとした判決だったと思います。文雄さんの自死は原発事故が原因だったと断じたにとどまらず、文雄さんが村で紡いだ102年の人生とその無念さにもかなり頁を割いて言及していました。「文雄にとって、村での生活は、百年余りにわたって積み重ねてきた人生そのものであり、村以外では決して賄うことができないものであった」といった調子で。
田中 それを本当によく理解した判決でした。ちょっと驚きますね。
青木 その意味でいえば、義父の無念を晴らしたいという美江子さんの想いは、ひとつの区切りがついたのかもしれません。ただ、全体状況でいえば福島における原発事故の後始末も被害救済もまだ終わっていません。
田中 そうですね。石牟礼さんの『苦海浄土』も、水俣の人々の裁判闘争です。そのすさまじい内容が、二部、三部と書き継がれていくわけですね。裁判闘争という形態は、江戸時代とは違って、近代の社会のありようや物の考え方が非常によく表れる大事なものだなと改めて思いました。
自給自足が根付く共同体は盤石
田中 もう一つ驚いたのは、この102歳の文雄さんのように、外に出ず、この土地に根差して農業をずっとなさっている方が、あの辺りではそんなに珍しくはなかったということ。たぶん、そういう方がもっと他にもいらっしゃるはず。そこに共同体があるわけですからね。
これが江戸時代だったら当たり前なんですよ。人口の80%がそうやって暮らしていたわけです。でも今の時代にこういう方がまだいらしたことに驚いた。しかも、江戸時代と違うのは、農業だけではなくて、本当にいろんなことを試していますよね。
青木 はい。農業とひとくちに言っても、コメや野菜以外に葉タバコを育てたり、桑を育てて養蚕を手掛けた時期もあって、畜産や炭焼きを手掛けたこともあったようです。冷害に苦しんできた高原の村なので、これをやっておけば安泰というものがなく、生きるために必死で模索を続けてきたのでしょう。
田中 その生活が自給自足に非常に近いものだったんですね。
青木 すべてを自給自足で賄うのはもちろん不可能ですが、昔ながらの生活がかなり残っていました。村には大型のスーパーすらなくて、取材で知り合った村人に「不便でしょう」と尋ねても、さほど不便さは感じてなかったと言うんですね。肉や調味料類はともかく、コメや野菜はいくらでも獲れるから買う必要もなかったんだと。
そうした点も水俣に通じるものがあります。水俣病に苦しめられた人びとも不知火湾で獲った魚を毎日食べて過ごしていた。不知火湾がそれほど豊かな海だったことの証左でもあり、地元住民にしてみればごく当たり前の、昔から変わらない生活でもあったのでしょう。
これは少し前、全国で「水俣展」を開催しているNPO法人「水俣フォーラム」の実川悠太理事長に教えてもらったのですが、都市部から水俣に赴任していたチッソの幹部らに水俣病患者はほとんど発生しなかったそうですね。そういった幹部らは、現在の僕たちのように主食にご飯などを食べ、おかずに魚類を食べたとしても、それ以外に副菜など摂るような食生活を送っていたからだと。
しかし、地元に暮らす住民たちは違った。僕のように海なし県で育った者からは羨ましくも思えてしまいますが、目の前に広がる豊穣な海で獲れた魚を主食のように日々たくさん食べ、だから大量の水銀を体内に取り込んでしまって患者が大量に生み出されてしまった。
田中 そう。『苦海浄土』を読むと、船で出ていって、途中で釣った魚をおろして、焼酎を飲みながら食べるシーンが出てきます。そういう生活が当たり前だったところに、海に毒が流し込まれたらひとたまりもないですよね。それは日々の糧を得る自分たちの土地に毒をまかれた福島も同様です。
そして今回の青木さんの本からは、飯舘村などにはまだそうした生活があったのだと気づかされます。石牟礼道子さんの『椿の海の記』(河出文庫所収)などを読むと、水俣でも自給自足はあるんです。お芋を作ったり、お米を作ったり、かんきつ類もすごく豊富だし、自分のうちで食べるものは買うことがないという生活をしていらして。
石牟礼さんも、今生きていらっしゃれば百歳近くなるので、この自死をなさった方と同じような時代を生きてきたわけですね。大きな農業をやっているわけじゃなくても、自給自足ができる生活は日本中にとても一般的にあったのだと思います。
青木 自分たちが暮らす地で獲れる物、手に入る物を食べるという、考えてみれば当たり前の生活ではありますよね。優子さんの専門分野ですが、江戸期などには「四方四里」という言い方があったとか。要は人間が自力で移動できる程度の範囲内で手に入る物を食べればいいんだと。
田中 そう、かつてはそんな暮らしがごく普通だったはずなんです。それは別に食べ物だけではありません。これも青木さんの本ですごく興味深かったのは、震災後に停電になっても、文雄さんのお宅はさほど困らなかったというお話。すごくいいなと思いました。
青木 震災があったのは2011年ですから、飯舘村でもオール電化にした住宅などもたくさんあったと思うのですが、そういった住宅は電気が途絶えると手も足もでず、困り果ててしまう。でも文雄さんの一家は違いました。風呂は薪で沸かしていて、文雄さんは「その方が体が芯から温まるんだ」と言ってこだわっていたそうです。もともと炭焼きを手がけていましたし、周囲は山林に囲まれていて、エネルギー源としての薪は無尽蔵にありますからね。だから停電になっても風呂でゆっくりと体を温め、夜はぐっすりと眠ることができる。
高原の村の3月はまだまだ寒いですから、暖房器具として欠かせないこたつの熱源も炭を使っていたそうです。
田中 はいはい、掘り炬燵に炭を入れてね。これも停電になったって何の問題もないし、お米だって2,3年分は持っていたそうですね。
青木 そうなんです。こちらは深刻な話でもあって、古くは江戸期から冷害などにたびたび苦しめられてきた高原の村ですから、秋にコメを無事収穫できたら、一家が1年過ごせるコメを必ず3年分は保管しておく代々の習わしを文雄さんは守っていたそうです。深刻な飢饉を何度も経験してきたがゆえの生命維持策、生活防衛策というべきものですが、エネルギー源にしても食料にしても、いざという時は昔ながらの生活の方がずっと強靭だし安心なんだなと、そう痛感させられたと美江子さんもおっしゃっていました。














