なぜ教訓をそのまま言わずに、わざわざ童話にするのか?
読書から何かを学ぼうとする場合、「物語」よりも非物語、すなわち、「説明文」のほうが効率的なのではないでしょうか。
「物語」と「説明文」の読書の違いについて、イソップ童話を例に考えてみましょう。
「アリとキリギリス」や「北風と太陽」が有名ですね。私も、小さいころに絵本で読んだ覚えがあります。
「アリとキリギリス」には「余裕のあるときに、将来に備えて準備しておくことが重要だ」という教訓が、「北風と太陽」には「力や厳しさよりも、優しさや寛容さが相手の心を動かすことがある」といった教訓が、それぞれ含まれています。
教訓的な内容を物語の形式で提示する、いわゆる「寓話」ですね。
しかしわざわざ寓話にしなくても、その教訓を直接的に伝えればよいのではないでしょうか。
つまり、「物語」ではなく「説明文」として提示するのではいけないのでしょうか。そのほうが短い時間で、要点だけを摑めるので、タイパがよいでしょう。
……なんとなく、「そうではない。同じ教訓でも、物語を読むことと、説明文で読むことは、何か違う」という気がしますよね。
実際、私のかわいい3歳の娘に絵本の「イソップものがたり」を読み聞かせると、きちんと聞いてくれます。内容も、まぁ理解しているでしょう。
しかし、絵本なしで彼女に「力や厳しさよりも、優しさや寛容さが相手の心を動かすことがあるんだよ〜!」と諭しても、無視されるか、しつこくいえば、怒って叩かれるでしょう。力や厳しさでこちらの心を動かしてくるわけですから、まるで教訓が伝わっていません。
『読めば分かるは当たり前?読解力の認知心理学』(犬塚美輪、筑摩書房)*1では、物語には「多くの物語に共有されている枠組み」があることが指摘されています。
例えば、「むかしむかし、あるところに」と、物語の舞台がいつでどこなのかを説明する場面から始まり、「悪い鬼がみんなの財宝を奪う」という課題が生じ、「きび団子でサル・犬・キジを仲間にする」という手順を踏み、「鬼を退治して、財宝を取り戻す」という課題解決を果たして、「めでたし、めでたし」で終わる、といったものです。
この枠組みは私たちの「日常的な経験」と似た枠組みであるため、子どもでも理解しやすいのです。「何がつらくて、何が大変で、何が嬉しいか」といったことは、小さい子どもでもわかるものですからね。
一方で、説明文にはそうしたわかりやすい枠組みがありません。
本書もそうですが、本ごとに「本書はこういう構造をしています。このように読み進めてください」といった「はじめに」や「まえがき」から始まります。
対して、小説はいきなり本文から始まります。「小説とはこういうものだ」という枠組みが、読者に十分に共有されているためです。「物語」という形式は、誰にもわかりやすい形式なのだということが、この点からもわかります。













