幼稚園の運動会ので、父が雨を瞑想で止めようとして
ーー麗華さんはオウム真理教にはいつ入ったのですか?
私はオウム真理教に入信をしたことはないので信者じゃないんです。5歳のときに千葉の船橋の家からオウム真理教の静岡県富士宮市の総本部に引っ越して、教団での生活が始まりました。(松本麗華さん、以下同)
ーー幼いころはどんな家庭環境だったんですか?
船橋のとき父は不在がちで、母と3人の姉妹とで過ごしていました。当時は幼稚園に通っていました。あとは父と母のケンカが多かったかもしれない。
ーーどんなお父さんでしたか?
父は子煩悩でしたね。育児に積極的に関わってくれて、その意味では現代の父親像に近いかもしれないですね。父が教祖になったあとですが、幼稚園の運動会の応援に来てくれたことがありました。そのときは雨が降ったので、父が「瞑想で止める」と言ってパイプ椅子の上で蓮華座を組んで瞑想している写真が残っていて。ちょっと恥ずかしかったけど、うれしかったです。
ーーお母さんは何をされていたんですか?
母は専業主婦で、ご飯を作ってくれたりしていました。あまりコミュニケーションをとるのがうまい人じゃないので、子どもが泣いているのをどうやって泣き止ませたらいいかわからなくて叩いちゃうとか、そういうところはありました。
ーー5歳から13歳の間に、サティアンというオウム真理教の宗教施設で過ごされたそうですが、小学校は行っていたんですか?
小学校は1日も行ってないです。入学式も行ってなくて。たぶん教団内で話し合いがあって、「そもそも学校に行かせる意味は?」みたいになっちゃったんだと思います。
ーー本当は学校に行きたかったですか?
学校に行ってれば給食を食べられたし、もうちょっと栄養状態がよかったかな。富士に引っ越したばかりのときの主食はオウム食というもので、根菜を水で煮たものと豆乳と豆腐と納豆とご飯だけなので、成長期の子どもにとってはタンパク質も足りないし、栄養が偏っていたなと思いますね。
ーー勉強はどうしていたんですか?
家庭教師として(教団の)いろいろな人がついてくれたんですけど、私が勉強から逃げ回ってしまって、9歳ぐらいになっても平仮名も読めない状態でした。だから9歳のときに父がいきなり本を100冊買ってきて「これで勉強しろ」って。1冊3回ずつ読むというのをやって、11歳ぐらいのときにはようやく少し読めるようになりました。それでも13歳のときはまだ自分の名前を漢字で書くことができませんでした。