5億円の一番マグロは本当に「好景気」の象徴か
世界は再び、力がすべてを解決できるという錯覚に深く酔い始めている。
制裁を振りかざせば国家は従い、関税を課せば市場は屈し、軍事と資源を押さえれば秩序は作れるそう––––そう信じる側にとって、ベネズエラをめぐる一連の出来事は、あまりにも分かりやすい成功体験に映ったはずだ。
国家は分断され、通貨は崩れ、経済は外部から管理され、主権は名目だけを残して空洞化した。もはや重要なのは、誰が正統な国家元首かという問題ではない。国家という存在そのものが、管理可能な機能の集合体へと分解されたという現実である。
力は、一度使えたという経験そのものが、次の誤りを準備する。再現できると信じられた瞬間から、力は節度を失い、拡張し、対象を選ばなくなる。その結果、次にどの国が標的になるかという問いは意味を失う。
国家は国家として扱われず、航路、資源、安全保障、人口、労働力といった機能単位に切り分けられ、値札を付けられていく。この世界観は、すでに国際社会の常識になりつつある。
そしてこの論理は、遠い中南米の話では終わらない。実際にコロンビア、グリーンランド、イランまでもがその視野に入っているのだ。そして、日本もまた、静かに、しかし確実にこの構造の内側へと引き込まれている。
その姿を最も分かりやすく、しかも毎年繰り返し可視化しているのが、年始のマグロの初競りである。豊洲市場で5億円という価格が付けられた一番マグロは、「好景気」の象徴として大きく報じられた。画面には熱狂が映り、景気回復の物語が語られる。
しかし二番マグロの価格は驚くべきものだった
しかし、その直後に続く二番マグロの価格が783万円だと知ったとき、この国の経済が抱える歪みは一気に露わになる。一番マグロの約65分の1の価格なのだ。市場原理という言葉では片付けられない異常な断絶だ。
重要なのは、5億円という数字の派手さではない。この数字が、日本経済全体の元気さを演出するための装置として機能している点である。一方で、783万円という現実は、ほとんど語られない。存在しているのに、見えないものとして扱われる。この構図こそが、いまの日本経済そのものではないか。
象徴的な一点に価値が過剰に集中し、それ以外の大多数は、存在していても価格が付かない。株価は史上高値圏で熱狂的に語られ、指数は祝祭のように踊る。しかしその一方で、庶民の生活温度は確実に下がっている。
食料品、光熱費、家賃、保険料は静かに上がり続け、賃金だけが取り残される。上では数字が熱を帯び、下では生活が冷えていく。この温度差が、そのまま社会の実像になっている。
この「象徴の力」は、経済だけでなく、この国の政治においても同じように作用する。内閣支持率という数字は、本来なら政策運営に対する暫定的な評価にすぎない。しかし、いつの間にかそれは政治的自由裁量を拡張する免罪符として使われ始める。













