物価高対策が急務なのになぜ解散する?

年頭には物価高対策が急務だと語られたにもかかわらず、高い支持率を後ろ盾に解散総選挙に打って出る。ここで問われているのは是非ではない。

支持率という「見栄えの良い数字」が政策の緊張感を奪い、円安への対応を「牽制」に矮小化し、メディアの視線すら慎重にさせていく構造そのものだ。

「解散を決断」と報じられる高市首相(高市氏Xより)
「解散を決断」と報じられる高市首相(高市氏Xより)

否定すれば反感を買う、支持率が高いから踏み込めない。そうした空気が形成された瞬間、政治は自己修正能力を失い始める。力を持つ側が批判されにくくなった時点で、歪みは内部に蓄積され、やがて制御不能になる。

この歪みは、労働市場においてさらに鮮明になる。いま日本では、インドネシア出身の特定技能実習生が路線バスの運転席に座りはじめている。タクシー業界では、中国やフィリピンなどから来た移民が、すでに都市の足を支えている。

かつては安全や責任を理由に拒まれてきた領域に、現実が制度を押し倒す形で入り込んできた。人がいなければ社会は回らないという事実が、理念や建前を超えて表面化したのである。

使われぬまま眠っている70万人分の”免許”とは

一方で、日本には約70万人分の看護師免許が、使われぬまま眠っている。資格を持ちながら現場を離れた人々だ。その理由は単純である。賃金が生活を支えられず、責任と負担だけが増え続け、心身が消耗し尽くすからだ。

これは個人の覚悟や使命感の問題ではない。制度が人を安く使い、高く使い潰してきた結果にほかならない。

ここで決定的な非対称が浮かび上がる。バスやタクシーの運転手は、制度を調整すれば外国人労働者で代替できる。しかし看護師はそうはいかない。高度な言語能力、国家資格、医療安全、倫理、そして一瞬の判断が生死を分ける責任の重さが、単純な置き換えを許さない。

つまり日本は、代替可能な労働から先に外国人に依存し、代替不可能な領域ほど、自国の制度疲労によって崩れている。

高齢化が加速する中で、医療と介護の人手不足は、この国の未来を最も正直に映している。高齢者は増え続けるが、支える側は減る。賃金は上がらず、責任だけが重くなる。外国人労働者なしで日本経済は回るのかという問いは、もはや思想や好みの問題ではない。生存条件そのものである。