バブル崩壊後の日本にはまだ、製造業があった

中国の若者は怠けているのではない。ましてや、働く意欲を失ったわけでもない。彼らが職につかないように見えるのは、個人の価値観や気質の問題ではなく、そもそもこの国が若者を受け止めるための雇用装置そのものを失ってしまったからだ。

それは失業という言葉で片づけるにはあまりに的外れで、むしろ国家モデルの老朽化が最も末端の世代にまで及んだ結果としての「静かな排出」に近い。

かつて中国は、不動産と建設を経済の心臓部に据え、土地財政を起点として地方政府、金融機関、関連産業、消費、雇用を一本の太い循環回路に組み込み、高速成長を実現してきた。

しかしその循環はいま、致命的な目詰まりを起こしている。恒大や碧桂園といった巨大不動産企業の行き詰まりに象徴されるように、新築住宅の販売は長期低迷に入り、土地収入に依存してきた地方政府は、新規採用どころか既存職員の給与維持にすら苦しむ立場へと転じた。

その結果、若者を大量に吸収してきた建設、不動産、周辺サービス分野の雇用は、連鎖的に姿を消していった。

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日本のバブル崩壊と決定的に異なるのは、日本には製造業というもう一本の骨格が残されていたのに対し、中国はほぼ単一の成長エンジンに国家を委ねてきた点である。

その一本が失速した以上、最初に行き場を失うのが若者になるのは、構造的に見て避けられない帰結だった。そこに重なったのが、ITプラットフォーム、教育産業、民間サービス業に対する急激な制度変更である。

アリババやテンセントに代表される民間IT企業は、かつて大卒人材の最大の受け皿だったが、「共同富裕」という旗印の下で、成長や雇用よりも政治的安定を優先する存在へと性格を変えた。

学習塾やオンライン教育産業は短期間で解体され、スタートアップへの資金供給は細り、若者を育てながら雇うという産業の連鎖は一気に断ち切られた。

社会問題化する中国版ニート「コウ老族」

一方、国有企業や公務部門は安定しているように映るものの、採用枠は極めて限定的で、毎年1200万人規模で増え続ける大卒者を吸収できる余地はほとんどない。

結果として中国の若者は、「働いていない」のではなく、「正規雇用に至る入口そのものが閉じられた社会」に放り出された。統計がこの現実を映さなくなったのも偶然ではない。

若年失業率の公表が止まったという事実は、数字が悪化したから以上に、この国がすでに拡大ではなく収縮の局面に入ったことを、無言のまま示している。

さらに重要なのは、失業の質そのものが変わっている点だ。若者の多くは、公務員試験や大学院進学という名の「待機」に入り、統計上は労働市場の外側へと分類される。

あるいはフードデリバリーや短期のIT下請けといった不安定な仕事に従事し、働いてはいるが将来の積み上がりが見えない状態に置かれる。

実家に戻り、親の収入に依存しながら、結婚や出産、消費を先送りする若者は「コウ老族」(啃老族、日本でいうニート)と呼ばれ、社会問題として語られている。