「赤痢菌やコレラ菌、チフス菌も見せられました」
「このごろちょいちょいと、また戦争の夢を見るようになっちゃってね。もうやだー、やだーと思ってる。標本室の『あれ』は夢に見ることがあります」
妻が入院し、一人暮らしをする清水さんは、過去の証言で挙げた細かい数字の一部を思い出せなくなっていたが、証言内容は一貫していた。部隊施設の配置図を広げ、1945年3月に始まった暗い記憶をたどってくれた。
「学校(国民学校高等科) を卒業するを卒業する直前に学校で軍属の『見習い技術員』になってハルビンで働かないかと募集がありました。好きなモノづくりの仕事かと思って応募し、ほかの男子3人、女子2人と一緒に満州へ向かったんです。女子2人は途中、新京(現・長春)で列車を降り、731の関連部隊に配属されたと戦後になって聞きました」(清水さん、以下同)
当時14歳。ハルビン駅で降りた同世代の少年40人超はトラックの荷台に乗せられ近郊の平房にある広い敷地にいた部隊に運ばれた。
「着いた施設には表札はなく、どういうところかはわかりませんでした。 軍人の心得などを10日間ほど教えられた後、私を含め3人が『教育部実習室』に配属されました。白衣を着ろと言われ、衛生関係の仕事をするんだと初めてわかりました。配属先での作業の内容を話すことは禁じられており、同じ隊舎で寝起きしても別の部署の少年兵が何をしていたのかは、わかりません」
実習室での作業は細菌培養の練習だった。プラチナ製らしい耳かきのような棒でネズミの尻から液を取り寒天に植え付けて培養することを繰り返した。
「基本を教わるので普段は危険のない雑菌を培養しただけですが、弱いペスト菌を扱ったこともあります。赤痢菌やコレラ菌、チフス菌も見せられました」
教育期間が終われば本配属されるはずだったが、その前に敗戦を迎えたため清水さんは兵器開発のための本格的な培養には携わっていない。だが、練習の先に何が行なわれているのかをはっきり知る機会があった。













