“絶好調男”は今でも演じている
筆者が本書を書くにあたっての取材と検証の中で、とりわけ印象に残ったエピソードが、経営者サイドが中畑と折衝を進めていく中で「中畑君、君のバックに誰かいるのか?誰にやらされてるんだ?」と言われたという。
各球団の親会社はどれも日本を代表する企業でそこで労使対応をして来た海千山千の幹部たちも中畑の交渉能力とキメの細かい選手のケアの仕方に驚いた証左である。
前編で紹介した通り米国の選手会はマービン・ミラーという組合活動のプロフェッショナルを事務局長に据えて、球団側の莫大な富の独占を可視化させてブルドーザーのように権利獲得を邁進させていった。
対して日本の場合はまさに現役の選手が矢面に立ち、自らが学びながら、声を上げて革命を起こした。労働問題の事務方のプロではなく、選手当事者が牽引したこと。これは日本球界が誇るべき歴史であろう。
同時に取材を重ねるうちに中畑清=「猪突猛進の単純明快な男」というパブリックイメージが大きくくつがえされていった。組合結成後のメディア対応やファンに理解を促す世論形成についてもこれほど緻密に考えて動いていたのかと感慨を受けた。
––––一般に野球ファンに流通している絶好調男という役割は演じていたのでしょうか?
中畑「ああ、今でも演じているね。だから、鍛え上げられたサイボーグだろうね。
俺は血液もA型で繊細で、今でも意気地なしだし、臆病で怖がり屋だよ。ただ、いろんな状況、いろんな環境で、いろんな人に会って、いろんなことを教わって、それで変わってきた。人のために何かをやることがもう当たり前のような生き方しかできないんだよ。
それが、どんどん表に出ていかなきゃいけないという立場になって、考えさせられて、勉強させられて、嫌々嫌々勉強したようなとこあるけど、でも、それが俺を変えていった」
典型的なA型気質で、繊細な怖がり屋を十二分に自覚しながら、それでも現役時代から自分を鼓舞するように豪快にふるまって来たのは、ひとりの先人の大きな影響だった。
中畑「繊細に見られたくなかったんだ。やっぱり俺には根底に長嶋茂雄の存在があるから。長嶋さんみたいにダイナミックなプレーヤーに見せたいという気持ちがあったんだよ。そういうのを土台に俺は育ってきたからね。
最近、長嶋茂雄賞というのが創設されたけど、この選定は難しいだろうね。自己演出してどうファンを魅せるのか。数字じゃない人だったから。岡本(和真)とか、もの凄い選手だけど、やや地味な分、不利だろうな。とにかく長嶋さんの存在は大きかった」
長嶋氏からは「キヨシ、それは時期尚早じゃないか?」
一方、本書のあとがきにも書いたが、全体の選手のための組合創設などは、本来野球界のスターとして不動の地位を築いていたONが未来のことを見据えて、やらなくてはいけない仕事だったのではなかったか。
中畑「うん。だから組合立ち上げのときはONにも直接、俺はお願いにいったんだ。『ONが立ち上がったら、みんな付いていきます。黙っていても事は成功しますから。お願いします』と言ったけど、「キヨシ、それは時期尚早じゃないか? え?」って軽くあしらわれた。(部屋にかけられた長嶋の写真を指差しながら)このおじさんに(笑)。
でもね、12球団均等に選手の地位が上がって、たまに若い選手に球場で会って「ありがとうございました」とか直接言われると嬉しいね。それとFA以後のあの年俸の上がりようは想像以上だった。
とんでもない世界になってきて、全然アップしなかった俺らの時代って何だったんだろう、あ、じっちゃん(長谷川実雄代表)が大変なことになるぞ、と言ってたのはこういうことか、と思った」
中畑は彼本来の静かな口調になって言った。
中畑「俺がやったことによって球界全体が変わってくれたかな、という喜びは、自分の中だけにはあるのよ。それでなかったら、あんなバカバカしいことやらないよ。1円にもならない。それどころか、あの頃は選手会として使える経費なんてないんだから、全部自腹で持ち出しですよ」
––––脂の乗り切った現役でね。
中畑「うん。野球の神のお告げじゃないけどさ、『おまえ、何してんだ。野球人だろ?自分の仕事、プレーに集中しなさい』と言われているような現役としての時間帯だったわけでね。あの年、俺は苦労したけど、それでも都労委が認定してくれたときは、嬉しかったよ」
この時の喜びを中畑はこんなふうに語った。
中畑「これで野球界がどうあるべきかという課題にようやく注目させられる。すごく保守的で、遅れている世界で、実はいろんな酷い条件が当たり前のように流通していた。その裸にしたい部分が裸にできるようになったんだよ。それまでは裸にしても聞く耳が持たれなかったんだ。
でも組合というバックボーンを作ったことによって俺たちが要求する課題を取り上げてくれるしかなくなったんだ。それは『ざまあ見ろ』っていうぐらいの気持ちだった。やっと分かったか、このぐらいひどい世界なんだ。だから組合作ったんだ、俺らは、ということを大声で叫びたかった」
ヤクルト選手会、まさかの脱会で足並み揃わず…
それでも初代中畑会長の率いる選手会労組の船出は予想以上に厳しかった。組合として登記された翌年の1986年の開幕戦前日にヤクルトの選手会が脱退を突然宣言したのである。
会長の角富士夫が中畑の宿泊しているホテルに現れてヤクルトの選手全員が抜けることを伝えた。松園オーナーの圧力だった。これまでの喜びが大きかった分、中畑のショックは大きかった。
中畑「あれはショックだった。バカ野郎、そのために組合を作ったのに何で理解してくれないんだっていう悔しさだね。オーナーから直に圧力がかかるかたちで『お前らが束になってかかってきたって、“クビ”って言ったら終わりなんだぞ』と、その年のキャンプで一喝やられて、その瞬間にみんながビビったと言うんだ。
特にベテランの選手たちが死活問題で、それで(角)富士夫がわざわざ俺のところまで訪ねてきて、『力及ばずですみません。脱会させてください』と言うんだ。松園さんの鶴の一声に『それ言われたら僕ら何もできないんで』って。
悔しかったけど、『まあ選手としては、そう言われたら、従わざるを得ないだろうな。うん、分かった』って。『ただ、俺たちが選手会を作ったのは、そういった一方的なクビ切りがあったときに、みんなを守るためなんだ。その団体が選手会なんだ、組合なんだぞ』ということを淡々と富士夫に言ったかな。
それで、最後に『気持ちは理解するけど、12球団の足並みが揃わないというのは、つらいところがあるよ』ということまでは、伝えた」
––––開幕の前日というプロ野球選手にとって最も重要なタイミングにぶつけられた脱退宣言は、レギュラー選手としてメンタルがやられる。
中畑「そのやり方も汚いと思った。でも富士夫も言われてやらされているから、彼が一番大変だったと思う。それも分かるから責められないしね。ただ、何となく大体予測はついていたんだ。切り崩されるとしたらヤクルトだろうなと。当時、一番弱い球団だったし、親会社にも労働組合がなかったから。
でもそのあとに尾花(高夫)が会長になって、そしたら『中畑さん、待っていて下さい。自分が必ず復活させますから』と宣言してきたのよ。そしたら、本当に組合に再加入してきたんだ。あいつはしっかりしてるよ」
尾花がヤクルトを復帰させたことで、選手会は後に古田敦也、宮本慎也というリーダーシップに優れた人材を会長として得ることになる。
奮闘した中畑が報われたDeNAの日本一
組合設立について無私の精神で走って来た中畑が、「俺にもようやく見返りの幸せが来たかな」と嬉しそうに呟いた瞬間があった。2024年、初代監督を務めたDeNAが日本一に輝いた。この日、始球式に登場した中畑はスタンドから大きな「キヨシコール」を浴びた。
中畑「あのときさ、俺が監督で日本一を獲ったわけじゃないけど、南場オーナーの配慮で日本一のチャンピオンリングを頂いたんだ。本当にありがたかったね」
これもまた選手会との因果関係がある。2004年球界再編時にあった球団減の動きを古田会長時代率いる選手会は阻止したが、同時に情熱のある新規会社による参入のハードルを下げさせたのである。
(※新規加盟金はそれまで60億円であったが、半額の30億になり、その内、25億円はデポジット扱いで加盟から抜けたら返却される。実質、5億円で参加できることになった)
これがなければ、南場智子オーナーが起業したDeNAを親会社とする新生ベイスターズは生まれていなかったとも言えよう。2024年のチャンピオンリングは唯一中畑にもたらされた野球の神様のご褒美だったかもしれない。
––––今では選手の年俸も劇的に上がる。中日のクローザーの松山晋也は入団時は年俸300万円の育成出身ながら、3年目の今シーズンオフに1億2500万円で更改した。40年前以前では到底考えられない昇給率です。だからこそ、先人たちが繋いだこの歴史を知って欲しいと思う。
中畑「うん。それは一番思うな。今、日本代表に行っている連中こそ、強い気持ちを持ちながら、これは大事なことなんだということを後輩たちにも教えてほしいしね。
でも、俺らが作ったからということで、それを無理に彼らには背負わせたくはない。時代の流れというのは必ずあったことだから、『お前ら、今の環境に甘えてんじゃねえぞ』みたいなことは、あえて言う気もない。
それよりもこれから先のことを考えたときに、メジャーがこれだけ盛り上がってるけど、一番大事な土台の日本のプロ野球はどうなっていくんだろうということの不安。そこで今度は、労使関係の中に、どれだけ同じアイデアを保ちながら協力し合っていくかという環境作りをやんなきゃいけないと思う。
労組とNPBとでどれだけの世界を作っていけるか。野球界の展望をともに考えていって欲しい」
取材・文/木村元彦













