40年前に起こった地殻変動

「コーヒーを飲もうか」

台所から、深みのある香りをテーブルに運んでくると、自らも琥珀色の液体を極彩色のマグカップに注いだ。

「これはかあちゃんが使っていた形見なんだよ」

中畑清は最愛の妻・仁美さんを2012年の12月に子宮頸がんで亡くしている。この家には大きな歴史がある。

40年前の1985年11月5日、SNSどころか携帯も無い時代にこの中畑家の電話が日本プロ野球界を大きく変える福音を鳴らした。受話器の向こうの東京都労働委員会は、それまで一般社団法人だった日本プロ野球選手会を労働組合として認定したと告げたのである。

これでNPBや球団に対して選手たちが対等の立場で交渉が出来ることになった。以降、選手の待遇は劇的に改善され、志を受け継いだ歴代の選手会長たちは、そのバトンを繋いでいった。

中畑清氏
中畑清氏

日本に初めてFA制度を導入させて選手の移籍の自由を担保させた岡田彰布、命がけのストライキで球団数の削減を阻止した古田敦也、球団に一元管理されていた選手の肖像権の奪回に奔走した宮本慎也、東日本大震災時に被災者に寄り添ってシーズンの開幕延期を成し遂げ、さらにはWBCのスポンサー利権を独占する米国から日本に還元させた新井貴裕、現役ドラフトを実現させて、環境と合わずに埋もれていた選手たちを開花させた會澤翼など。

それぞれに大きな功績はあるが、すべての大元はこの中畑の献身にあった。

選手会の快挙として挙げられる、2004年の球界再編時のストライキも選手会組織が団結権、団体交渉権、団体行動権の労働三権が保障された労組になっていたからこそ可能になった。

ストが出来ず、あのまま巨人戦の放映権料をあてにした球団シュリンク(縮小)が続けば、現在のような日本球界の隆盛はなかったと言えよう。

中畑は40年前、果たしてここまで球界を見据えていたのか。「労組日本プロ野球選手会をつくった男たち」を刊行したタイミングであらためて対話を試みた。

労組結成を圧力でつぶされた過去も

――選手会を労組にしようとした背景には何があったのでしょう。米国では1960年代からメジャーリーガーたちが全米鉄鋼労連の事務局長だったマービン・ミラーを起用して、世界最強の労働組合となるMLPBAを立ち上げ、選手の権利を次々に獲得していっていました。

それに遅れること20年、押しも押されもしない巨人の現役レギュラーでいながら、シーズン中に内密に事を進めて労組結成に向けて奔走した。どういう思いで立ち向かったのでしょうか。

中畑「労働組合にしようというのは、最初からそう思っていたわけじゃなくて結果としてそこにたどり着いたということかな。俺自身の中では『このままでいいのか、日本のプロ野球界は』というふつふつした思いからのスタートだった。

具体的に言うと当時、『プロ野球の魅力って何なの?』と聞かれたときに、選手として答えられなくなっていたんだよね。給料のいいやつはいいけど、そうでない部分があまりに大きかった。365日、ほぼ自由が無くて、球団行事というか、球団名で何か言われれば、まるで持ち物であるかのようにいつなんどきでも出席しなきゃいけない。

俺は巨人の選手会副会長の頃から、球団に対してクーラーを入れて欲しいとか、駐車場をファンと分けて欲しいとか、そういう小さなことを嘆願したけど、まったく聞く耳を持ってくれなかった。

主役であるべき選手の尊厳もないがしろにされていて、全体の姿としてはあまりにも体たらくの世界だった。選手の声が一切無視されているという、自分はその形を変えたかった。

中畑氏(右)と『労組日本プロ野球選手会をつくった男たち』の著者、木村元彦氏(左)
中畑氏(右)と『労組日本プロ野球選手会をつくった男たち』の著者、木村元彦氏(左)

同じテーブルについて交渉できる世界にするには、どうすれば良いか。(社団法人の)選手会参与の山口恭一さんから労働組合の意義を聞いて、そこに弁護士の長嶋憲一先生が入って来てくれて、自分でも一生懸命勉強したんだよ。

社団法人のままならば要望に過ぎなかった選手の声が、労働組合になれば要求として出せて、球団はそれに誠実に対応する義務が生じる。だから、組合を作るしかないという結論にたどり着いたのは、簡単だったんだけども、でも、それをやると言ったときに、果たして前例が無かった。

『それは大変なことで、昔、別所毅彦さんや稲尾和久さんたちが、結成に動いたけど、圧力がかかって潰された歴史がある』と長谷川実雄(巨人球団代表)さんや坂井保之さん(西武球団代表)が教えてくれた。

誰もやっていないならば自分がその大変なことをやらないといけないと考えた。長谷川さんや坂井さんは球団側だったけど、選手のことを親身になってアドバイスをくれた。バレたら潰されるということで俺は『隠密剣士』になって動いたんだ」

隠密剣士=徳川将軍の嫡子の剣士が身分を隠して悪と闘う時代劇ドラマである。主人公松平信千代に興味深いセリフがある。

「私が闘うのは将軍家の権力ためではなく、民百姓の安らぎのためだ」

中畑は巨人のレギュラーという12球団で最も恵まれた待遇にありながら、他チームの過酷な環境に置かれた選手のために立ち上がった。

各球団のトッププレイヤーを副会長に選出

当時の野球統一契約書に記された保留制度によれば、選手は一度、球団と契約すると半永久的に拘束される。自分の意志で退団しても任意引退で他球団との交渉はできない。「まさに百姓は生かさず、殺さず」の立場に置かれていた。

労組に移行する準備を進めるにあたって中畑は全選手にかん口令を敷いた。

中畑「あのときに各球団から副会長を選出して相談したんだけど、彼らには本当に感謝している。『キヨシ、お前がやるならやるよ』と言ってくれた本当の仲間がいなかったら、俺は勇気を決して持てなかっただろうね。

梨田昌孝(近鉄)、齊藤明雄(大洋)、真弓明信(阪神)、落合博満(ロッテ)、永射保(西武)…、各球団の中でのトッププレーヤーを選んだ。何かあっても球団はクビには絶対できないという連中が合体して防波堤をつくってくれたんだ。

まず組合がどういうものか選手は全然知らないから、そこを話すことから始めた。結果がどうなるという答えを最初に示すのも大変だった。ただ、これを作れば選手みんなが守られるんだぞということだけは理解してほしくて訴えた。

俺も十字架を背負ったよ。自分だけじゃなくて12球団の選手のことを考えなくちゃいけないんだから。それも二軍の選手の生活もかかっていたからね」

実務については後に名球会会員や監督経験者になる副会長たちが、労働組合への申請手続きに協力して秘密裏に実態調査のアンケートを取り、加入届に全選手の署名を集めてくれた。顧問の役割を担ってくれた長嶋憲一弁護士は球団による選手支配の厳しさに驚くと同時に都労委への根回しを行った。

都労委は選手の置かれた境遇を知り、これは一般的な会社員以上に過酷な労働環境であるとして、むしろスムーズに組合の認可を出した。これを受けると中畑は即座に選手会を労働組合として法人登記した。11月19日のことであった。

ここに至ってマスコミに情報が漏れて大騒ぎになったが、球団や機構が無効を主張しようとしても登記という事実の前には、あとの祭りだった。

中畑「認可が11月5日で登記は19日。そこはスピードだった。邪魔をされないようにまずは組合としての既成事実を考えた」 

マスコミと世間を敵に回さないように…

40年のタームで見れば、このとき、中畑は12球団の選手と横に連帯したと同時に未来の選手たちとも絆を結んでいた。組合にしたことで、選手の権利獲得は年月によって進み続け、FAもポスティング移籍もメジャー移籍も各段に自由になった。

(もちろんメジャー移籍については一人で突破した野茂英雄という個人の功績を抜きにしては語れないが)大谷翔平も山本由伸も今の現役選手はその権利を享受している。そもそも球団再編時に選手会の抗いがなく、日本球界が8球団になっていたら、大谷は高卒でメジャーに移籍していたのではないか。そうであれば、果たして米国で二刀流は結実しただろうか。

中畑「当時は正直、目の前の権利のことで動くのに精いっぱいで、40年後のことまで考えていたと言うとカッコ良すぎるかな。ただ、組合になっていなければ、FAもポスティングも明らかに時間的には遅れただろうね。

それでもそういう改革のうねりみたいなものはあったはずで、その中で俺も動いていたと言える。誰かしら、やんなきゃいけないということをたまたま俺が一番強く感じたから、会長として動いたに過ぎないんだ。それとまず最初に40年後の選手の事を考えていたら、統一契約書の見直しをいきなり迫ったと思う」

日本の野球協約はまだ連合国の占領下にあった1951年にGHQによってもたらされたもので、元はメジャーリーグのものが、そのまま翻訳されたのである。保留制度が記された統一契約書は御用組合時代のメジャーリーガーたちから、すべて搾り取られる「奴隷契約書」と呼ばれていた。

写真/shutterstock
写真/shutterstock

中畑「そう、それに近い。肖像権も含めてほとんど球団の言いなりとなるもので、選手サイドに特典や権利がないのが統一契約書だった。でも、いきなりその問題を取り上げるとマスコミや世間がついて来ないのが分かっていたんだ。

メディアの表面的な報道だけでは、理不尽な契約の内容まで理解はしてくれない。俺は世論を敵に回したら必ず潰されると思った。『それまでその統一契約書でやっていたんだろ、何をカネに恵まれた野球選手がそんなこと言ってんだ』みたいな、そういうやっかみは日本人の特徴の中に強くあるからね。

俺はまず底辺の地位を上げていくことを考えて一軍、二軍の最低年俸保障に着手した。『プロ野球選手の実態はこんなにみすぼらしいものなんだよ』ということを発信して行動に移した。

二軍の最低保障を280万円から360万円に、一軍は600万円を840万円にして、二軍の選手が一軍に出場登録されれば、試合に出なくても登録の日割りで参稼報酬(一軍追加参稼報酬)がもらえるようにした。生活も楽になるし、二軍の選手のモチベーションも上がるからね」

この成功を見てプロゴルファーたちが選手会を作りたいといって中畑を訪ねてきた。中畑は惜しみなく倉本昌弘らにそのノウハウを伝えた。

取材・文/木村元彦

後編 “絶好調男” の仮面の裏で…中畑清が語るプロ野球労組創設の壮絶舞台裏「ONも『キヨシ、それは時期尚早じゃないか?』って」 に続く

労組日本プロ野球選手会をつくった男たち
木村 元彦
労組日本プロ野球選手会をつくった男たち
2025/11/6
2,200円(税込)
240ページ
ISBN: 978-4797674712

初代会長の中畑清、FA制度導入の立役者・岡田彰布、球界再編問題で奮闘した古田敦也、東日本大震災時に開幕延期を訴えた新井貴浩、現会長の曾澤翼など歴代選手会長に聞く、日本プロ野球選手会の存在意義とは。

今から40年前の1985年11月に設立された「労働組合日本プロ野球選手会」。
一見、華やかに見える日本プロ野球の世界だが、かつての選手たちにはまともな権利が与えられておらず、球団側から一方的に「搾取」される状態が続いていた。そうした状況に風穴をあけたのが「労働組合日本プロ野球選手会」であった。大谷翔平選手がメジャーリーグで活躍する背景には、彼自身の圧倒的な才能・努力があるのは言うまでもないが、それを制度面で支えた日本プロ野球選手会の存在も忘れてはならない。
選手たちはいかに団結して、権利を獲得していったのか。当時、日本プロ野球の中心選手として活躍しながら、球界のために奮闘した人物や、それを支えた周りの人々に取材したスポーツ・ノンフィクション。

amazon