創業90年、戦争へ突き進む時代に生まれた下町の美容室

井上美容室を1人で切り盛りするのは、昭和29年(1954)生まれの3代目店主・廣島明子さん。前髪を赤と緑に染め、パーマも当てた笑顔まぶしい女性だ。店は先代である母・井上みゆきさんから引き継ぎ、みゆきさんは師匠の茂木さんから引き継いだのだという。

井上美容室店主・廣島明子さん(写真/集英社オンライン)
井上美容室店主・廣島明子さん(写真/集英社オンライン)
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創業された昭和10年(1935)は、日本が大陸への進出を強め、戦争に向かって行った時代。井上美容室もまた、激動の時代に呑まれるかのような歩みを進めていった。

「当時は“髪結い屋さん”といって、髪を切るんじゃなくて、日本髪とかを結っていたの。でも、戦時色が濃くなるにつれておしゃれもできなくなってね。お店も創業して何年かで壊さなきゃいけなくなって。この辺りは“強制疎開”といって、空襲で燃え広がらないように建物をみんな潰していたから」(廣島明子さん、以下同)

店が再開したのは終戦後で、このころに母・みゆきさんが16歳で弟子入り。みゆきさんが美容師の道を選んだのも、時代を感じさせる壮絶な経緯があったそうだ。

「私のお婆ちゃんは旦那が3人いて、母は2人目との子だったの。昔は医療が発達してないし衛生状態も悪いから、旦那が続々と死んじゃったんだけど、女は1人じゃ食べていけない時代だから何度も結婚してさ。

でも笑っちゃうのが、3人目の旦那とお婆ちゃんが京都から駆け落ちした後、母は10歳で芸者に売られちゃったのよ(笑)。当時はまだ人身売買があって、新聞に“10円で子どもを売ってください”なんて広告も出ていたような時代だったから。

母は小学校を出てから芸者置屋で下働きして、14歳ごろから女子挺身隊(※軍需工場などで働く未婚女性の組織)に行って、中島飛行機ってところで戦闘機のエンジンとかプロペラを作っていた。

終戦してまた芸者に出ようかと思ったら、芸者屋の女将さんが『これからは女は手に職つけたほうがいい』って。最初は角にある別の美容室で働いて、その後にここへ来て弟子入りしたみたい」

昭和の時代は定番だったお釜式のドライヤー。これを頭に被せると、温風が全方位から包んでくれる(写真/集英社オンライン)
昭和の時代は定番だったお釜式のドライヤー。これを頭に被せると、温風が全方位から包んでくれる(写真/集英社オンライン)
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今では考えられない衝撃的なエピソードだが、明子さんは時折、笑顔を見せる。「でも母は超美人だったから、きっと芸者のほうが売れていたと思う(笑)。まぁ、そうすると今の私はないわけだけど」と語るその余裕からは、昭和を生きた“年の功”を感じた。