師匠から母、母から娘に受け継がれた店

みゆきさんはその後、師匠・茂木さんが亡くなった昭和26-27年(1951-52)ごろに店を引き継ぎ、昭和29年(1954)には結婚して明子さんが誕生。現在の店名に改名したという。

「両親はその辺の飲み屋で知り合ったらしくて、店の2階の3畳一間に、弟も入れた家族4人で住んでた。父は早稲田の理工学部で大学院まで出てるんだけど、小学校しか出てない母のほうが、稼ぎは全然良かった(笑)」

生まれたときから美容室の2階に住んでいれば、店を継ぐことも早くから志していたのだろうか。

「お店のお手伝いとかはしていたけど、子どもの頃はお風呂屋になりたかったの。銭湯はお客さんが勝手に脱いで入ってだから、番台に座っているだけで楽だと思って(笑)。美容師になったのも志とかじゃなく、自然のなりゆきって感じで、高校を出たら美容学校へ行ってこの店に」

昭和50年(1975)、店舗の建て直しに伴って開設届を提出した(写真/集英社オンライン)
昭和50年(1975)、店舗の建て直しに伴って開設届を提出した(写真/集英社オンライン)

現在の店舗兼住居は2代目にあたり、建て替えたのは昭和50年(1975)。ちょうど明子さんが働き始めたころだが、自分の店になるまでは長かったという。

「母ともう1人従業員の人がいたから、私は下働きが長かったの。母が亡くなったのは18-19年前で、晩年まで店にいた。従業員さんは、昭和33年(1958)生まれの弟がおむつ履いてるころから、10年くらい前まで店にいたのよ。

お客さんも、私より2人の仕上がりほうが好きな人もいたみたいでさ。常連さんは商店街の人や料理屋の女中さんが多いんだけど、この辺りは明治座があって古典芸能の人も来るから、そういう古い髪結いは昔の人のほうが上手かったのかな。母からも『アンタの店じゃない』って言われてた(笑)」

着付けまで行なえる店とあって、店内には着物も。これは年季の入ったものだという(写真/集英社オンライン)
着付けまで行なえる店とあって、店内には着物も。これは年季の入ったものだという(写真/集英社オンライン)

下働きが長かった理由は、子育てにもあったという。明子さんは2人の子どもを持つが、7歳離れているために子育て期間が長く、ブランクも長くなってしまったそうだ。

ちなみに、2人の子どもからは「お母さんが黒髪だったところを見たことがない」と言われているとのこと。現在では孫にも恵まれていると、嬉しそうな顔で話してくれた。