ジジイと「新世代型中高年」の思わぬ共通点
一方、「新世代型中高年」は、Z世代やコンプライアンス社会におもねっている。ジジイとベクトルは違うが、周囲のまなざしにとらわれ、組織人という役割を過剰に演じている点は共通する。
企業が若手の定着を最重要課題とする中、彼らの声を尊重しようとするあまり、若い人の意見は絶対的な「呪文」と化した。
新世代型中高年もその流れに身を任せ、「新しいこと」を受け入れているような気分になっているが、「本当にこれでいいのか?」と葛藤しながらも、結局は事なかれ主義で時代に合わせているに過ぎない。
かたや、階層最上階の上司たちは、「現場のことは一つよろしく!」とばかりに、「イノベーションを起こせ」「新しい風を入れろ」とプレッシャーをかける。彼らは上からの要求に応えつつ、下からの反発を避けなければならないため、ここでも「事なかれ主義」に陥りやすい。
気がつけば「コンプライアンス社会」という目に見えない空気のような牢獄に自ら進んで閉じこもり、その中で安寧を見出そうとする。
炎上を恐れ、非難・批判を避け、ただひたすらに平穏無事であることを望む彼らの行動は、もはや「忖度」と言えよう。
コンプラ社会へのおもねりには見返りは何もない
悲しいのは、ジジイの壁の中では、ヨイショ、ゴマすりも含めた「がんばったこと」への見返りが何らかの形であったが(多くは昇進などの形で)、コンプライアンス社会ではどれだけがんばっても見返りは何もない点だ。
それでも、長い職業人生で培ってきた「会社や上司の愚痴を言いながらがんばる」という奇異な特性を、「若手の愚痴を言いながらがんばる」に転化しながら再活用することで、しんどい日々をやり過ごしているのが新世代型の中高年だ。
その結果、自分が積み上げてきた心の土台も本来的な自己も意識できなくなった。すべては時代と環境が生み出したものであり、その悪癖を自覚することは容易ではない。そして、本人たちが無意識のうちに演じるその姿は、周囲の目には滑稽に映るのかもしれない。
かくして、40代は「何者にもなれなかった」と嘆き、50 代は「ただのおじさん・おばさんになってしまった」と焦り、60代は「いるだけで老害だ」と狼狽する。
では、「心の土台」を見失った新世代型の中高年は、これからどう生きればいいのか?
文/河合薫 写真/shutterstock













