「人間には死にきる権利がある」
――久坂部さんの最新小説『命の横どり』では、日本の心臓移植の現状について掘り下げています。心臓移植を待つ患者が800人以上なのに対し、年間の移植数が100件前後。また100万人あたりのドナー数は0.88人で、アメリカやスペインの約50分の1、韓国と比べても9分の1と言及されています。日本で心臓移植数が増えない理由を教えてください。
久坂部(以下同) それは脳死を受け入れられない人が多いからです。『命の横どり』を書くきっかけのひとつが、知り合いの作家の言葉でした。彼は、「人間には死にきる権利がある」と話していました。
私は作中に登場する弁護士に同じセリフを語らせました。「人間には死にきる権利があるんです。脳死のような中途半端な状態ではなく、呼吸も心臓も完全に停止して、身体も冷たくなって、だれが見ても明らかな死の状態になるまで、安易にこの人は死んだなどと決めつけてはいけないということです」「心臓も動いているという段階で、死んだと決めつけて、臓器を取り出すなど、ドナーにされた人への人権侵害です」と。そうした考え方に共感する日本人は少なくありません。
臓器移植は、移植によって命を救われたという明るい話題がニュースに取り上げられがちです。しかしその影には、ドナーの死が確実に存在します。脳死状態の患者がドナーカードによって臓器提供の意思を示していたとしても、本作で書いたように死を受け入れられないご家族もいます。
私にも、その気持ちは分かります。人工呼吸器を装着しているとはいえ、胸も動いていますし、身体も温かい。心臓も動いています。本当に死んでいるのか、自分が心臓移植を認めたことで、家族を殺してしまうのではないかと葛藤するご家族もいるのです。
――まさに作中に出てくるドナーの母親は、臓器移植を家族として認めたことで、脳死となった息子を殺してしまったのではないかと葛藤します。
誰にでも、脳死状態に陥る可能性はあります。交通事故や水難事故、自殺未遂、くも膜下出血、脳梗塞、酔って転倒して頭を打って脳死というケースもあります。不慮の事故や突然の病気で脳死は、いくらでも起こりうる。
もしも、夏休みに子どもを海やプールに連れて行って、少し目を離した隙に溺れて、脳死状態になったとしたら……。朝まで元気に遊んでいた子の臓器提供を認められるか、どうか。
――自分のことなら、ドナーカードで意志を示せますが、子どもや家族のことを考えると判断は難しいですね。
難しいです。ただ、そこで考えなければならないのが「ダブルスタンダード」という問題です。では、逆の立場になって想像してみてください。自分の子どもが心臓移植をしなければ、余命1年と診断されたとしたら、どうですか。きっと誰かに心臓を提供してほしいと思う人が多いのではないでしょうか。
――確かに。そうなったら、誰かの脳死を望んでしまうかもしれません。
自分の子どもの脳死状態は認められない反面、心臓移植の必要に迫られたら、移植を希望する。ふだん脳死や臓器移植について考える機会がない人は、その考えがダブルスタンダードであることにすら気づいていません。
とはいえ、子どもや孫が脳死状態になったときに「分かりました。どうぞ」と言えるほど、心の準備ができている人はほとんどいないでしょう。
論理的に考えれば、自分が脳死状態になっても心臓が止まるまで治療を続けてほしいのなら、臓器移植を希望するのは間違っています。反対に心臓の疾患が見つかったときに移植を求めるのなら、脳死になった場合は自分の臓器を提供すべきです。
――確かにそうでなければ筋が通りませんね。久坂部さんご自身はどうお考えですか。
私なら、自分の孫や子どもだとしても、脳死だと分かれば、あきらめて臓器提供を申し出ます。医師として長い間、臓器を待っている人たちの存在を知っています。何よりも、私たち医療従事者は、経験的にも理論的にも、脳死が人の死であることを理解していますから。













