「臓器移植は人類が手にした究極の医療」
――そもそも脳死とは、どのような状態なのでしょうか。
脳死は脳幹を含む全脳死を指します。呼吸や心拍などの生命維持をつかさどる脳幹が死ぬと、どんな蘇生処置を行っても生き返る可能性はありません。脳死状態かどうかは、耳に冷たい水を入れて眼球が動くかで脳幹の生死を確認します。1回目のチェックのあと、6時間後に再び確認し、目が動かなければ、脳死と判定されます。
――慎重に判定するのですね。
作中にも詳細なプロセスを書きましたが、人の死と判定することですから、厳格に行なっています。しかし、脳死状態でも人工呼吸器をつけていると、しばらく心臓は動き続けます。だからこそ、心臓移植が可能になるのです。しかしいくら移植が目的とはいえ、生きている人の心臓を取れば、殺人になってしまいます。
そこで、心臓移植を行うためには、心臓は生きているが、ドナーは死んでいるという、ある意味で不自然な状況をつくりださなければなりませんでした。そうして生まれたのが、脳死という概念です。日本で、脳死による臓器提供が、子どもを含め認められたのは、2010年に臓器移植法が改正されてからです。
――だれもが脳死状態で臓器提供ができるようになってから、まだ15年しか経っていないのですね。脳死と植物状態はどう違うのですか?
端的に言えば、脳死も植物状態も大脳は死んでいます。意識がないという点ではどちらも同じ。ただし植物状態では、脳幹が生きているので、自発呼吸ができます。水と栄養さえあれば生き延びることができるのです。だから植物状態の患者がドナーカードを持っていたとしても臓器提供はできません。
一方で脳死状態では、やがて呼吸も心臓も止まります。人工呼吸器をつけたとしても、心臓が動き続けるのは、2、3日から1週間程度。メディアで脳死から蘇ったと報じられる場合がありますが、それは医師が脳死の判定を間違えたからです。
――日本での心臓移植が難しいために、日本人は海外で移植を受けるという現実があります。本作の中で、日本人医師が、イギリス人医師に言われた「日本人の患者がイギリスで心臓移植を受けたら、イギリス人は2人死ぬんだ。1人は心臓を提供した者、もう1人はその心臓で助かったはずの患者だ」という言葉が印象的でした。まさに「命の横どり」ですね。
実は、これは私が、1988年に外務省の医務官として赴任したサウジアラビアでイギリス人医師から実際に言われた言葉です。
当時、日本では、まだ臓器移植法が制定されておらず、脳死という考え方も認められていなかった。でも、海外では脳死状態のドナーからの心臓移植は可能でした。「日本人は独特の死生観を持っているから、臓器移植が進まない」というような言い訳をした私に対し、イギリス人医師はこう語りました。
「死の悲しみが深いのは、イギリス人も同じだ。我々だって脳死を簡単に認めているわけではない。だが、臓器を提供してもらえれば、助かる患者がいる。だから、つらい気持ちをこらえて、脳死患者の家族に臓器を提供してもらえるようお願いするんだ」と。
日本人の脳死は認めないけど、外国人の脳死は認める。日本人の、いえ、私自身のダブルスタンダードを突きつけられたようで、ショックを受けました。恥ずかしさで、何も言い返せなかったのを覚えています。
かつては海外で心臓移植を受ける日本人はたくさんいました。経済力があった日本人が、臓器提供を優先的に受けていた時代の影響で、現在はドイツやイギリス、オーストラリアなどで日本人患者に対する臓器提供は中止されました。2008年の「イスタンブール宣言」で、臓器移植はできるだけ国内で賄うなどのガイドラインが示されたからです。
――日本でも「ダブルスタンダード」をなくし、ドナーを増やしていく必要がありますね。
ドナーを増やすことは大切ですが、ことはそう単純ではありません。
日本で心臓移植を行える施設はわずか12箇所。採算が取れず赤字になりやすい心臓移植は、病院にとって続けるのが難しい現実があります。医療的な受け皿が圧倒的に不足しています。
私は『命の横どり』に登場する医師にこう主張させました。
〈臓器移植は人類が手にした究極の医療である。心臓病で苦しむ幼児が、心臓移植で天寿をまっとうできるようになる。その両親の喜びを思いやってほしい〉
そのためにも脳死を受け入れられる土壌づくりと「同時」に、臓器移植を行うためのインフラを整えていく必要があるのです。
構成/山川徹













