1980〜1990年代:冷戦からポスト冷戦へ
天敵同士だったイランとイスラエルだが、それまではヒズボラのような代理勢力を使った攻防はあったものの、本国同士が交戦したのは初のことだ。背景にはイランが核開発を加速させていることがあるが、いずれにせよここでも従来は機能していた〝歯止め〟がかからない。
これらの終わりなき流血は、偶然ではない。まず国際安全保障環境で、侵略行為を抑止するメカニズムが機能しなくなっている。国連安保理の拒否権を持つロシアと中国が完全に米英仏と対決姿勢になっており、安保理は機能しない。侵略に対しては、被侵略国の自衛しか対抗策がなく、そうなると軍事大国はやりたい放題だ。無法状態のようなものだ。
しかも、世界ではプーチン政権、習近平政権、イランのハメネイ政権といった非民主主義の権威主義国家の勢力が攻勢に出ており、いわゆる〝西側〟は劣勢にある。つまり世界ではかつてよりもさらに非人道的な暴力や紛争が拡大しているわけだが、なぜ、どのように、世界はそうなってきてしまったのか。そのメカニズム変貌の流れを振り返ってみたい。
まず、第二次世界大戦後に長く続いたのが冷戦だった。米国とソ連をそれぞれ盟主とする西側と東側の対立が長く続いた。核大国の米ソは直接交戦はしなかったが、互いの〝縄張り〟を守るべく、自陣営の国々あるいはゲリラ勢力を支援した。
もっとも、経済的な発展の差もあり、冷戦が進むにつれて世界の主導権争いは西側の圧勝になっていった。1985年にソ連の政権トップの共産党書記長となったゴルバチョフが始めたペレストロイカ(再構築)とグラスノスチ(情報公開)で強権支配が弱まり、東側の統制が緩んだ。
1980年に開設されたCATVの24時間ニュース局「CNN」などの影響で、情報の伝達が進化した影響もあった。情報伝達が多様化・迅速化し、共産圏の情報統制地域でも政府の建前の欺瞞が糊塗できなくなってきたこともあった。
冷戦は1986年10月のレイキャビクでのレーガン=ゴルバチョフ首脳会談で緊張緩和に向かう。1989年5月にハンガリー政府がオーストリアとの国境の鉄条網を撤去し、「鉄のカーテン」が崩れたことを出発点に、東欧からの大量の脱出者が生まれ、同年9月に東ドイツのライプツィヒで大規模な民主化要求デモが行われ、11月にベルリンの壁が崩壊した。
本家のソ連では1991年6月に改革派のエリツィンがロシア大統領選で勝利し、翌7月に就任。同年8月のソ連守旧派のクーデター失敗が決定的転機になった。ソ連共産党が敗北したのである。ソ連の解体は同年末である。













