維新が批判してきた「ザ・自民党」と変わらない
本来、「外形的公正性」は「説明責任」とセットで語られるべき概念である。「疑われるような見た目」があったとしても、それに対して透明性のある説明を尽くすことで、国民の理解と信頼を得るのが民主主義の健全な姿だ。
疑惑を発生させないこと以上に、発生した疑惑に対し、誠実に説明責任を果たすことの方が、政治の信頼を維持するためにははるかに重要である。疑念を払拭する努力を怠り、「見た目が悪いからダメ」の一言で思考停止を求める態度は、説明責任の放棄であり、民主主義の精神に反する。
藤田文武氏は、たとえ法的には潔白であったとしても、公金還流疑惑によって国民の疑念を招いた点で、政治的説明責任を十分に果たしたとは言えない。その点において、政治家としての責任を免れることはできないであろう。
しかし、より深刻な問題は、その藤田氏を断罪した橋下徹氏が掲げる「公正の物差し」が、自らの発言や態度に対しては、いかにもろく、いかに恣意的であるかという点にある。このような態度は、橋下氏が主張する「見た目の公正さ」を、彼自身が最も欠いているという痛烈な皮肉を呈している。
橋下氏のいう「外形的公正性」は、一見すると国民に寄り添った清廉な政治を求める主張のように響く。しかし実際には、政治を形式主義に陥らせ、政治家から活力を奪い、最終的には彼自身の都合に合わせて解釈・運用されかねない危うい二重基準である。
維新の内紛が激しさを増しているのは疑いようがない。さらに経済合理性を欠いた政策に頼る姿は、これまで維新が批判してきた「ザ・自民党」と変わらない。
藤田氏が共同代表に就任して以降、教育費の税負担化といった分配政策や、万博などの公共事業に依存する従来のリベラル的傾向から、ようやく抜け出そうとする兆しが見え始めていただけに、今回の問題は極めて残念である。
とはいえ、藤田氏には丁寧な説明責任を果たしたうえで、維新が本来の改革政党として再生していくことを願いたい。
文/小倉健一
                        
                        
                        
                        
                        
                        
                        
                        
                        
                        
                        
                        
                        
                        
                        
                        












