プロのものまね芸人を目指し、大阪NSC(吉本総合芸能学院)に入学

高校時代、田んぼに囲まれた学校の中で、牛舎だけが逃げ場所だったという。

「牛に向かって“モ〜”って鳴きまねをすると、反応してくれるんですよ。だからずっと牛を相手に“モ〜”ってやってましたね。鶏舎や豚舎もあったので、鶏や豚のものまねもしてました。力では勝てへんけど、ものまねだったらヤンキーを負かせるかもって。ものまねだけが僕の唯一の自信だったんです」

高校の卒業アルバム
高校の卒業アルバム

高校卒業後は、特撮やアニメ好きも相まって、「ものまねができれば声優になれるかも」と思い、声優の専門学校へ入学。しかし、思い描いていたような道は開けなかった。

「結局、声優の仕事はお芝居で、ものまねとは全然違うことに気づいたんです。それで、専門学校を卒業したあと、大阪のNSCに入ることにしました」

再びプロのものまね芸人を目指し、大阪NSCに27期生として入学するも、当時の大阪NSCには、ものまねをやる生徒はいなかった。

「とりあえずお笑いなら吉本かな、というくらいの気持ちでしたが、最初からものまねで勝負するつもりでした。同期は800人くらいいて、ものまねをやっていたのは僕だけだったと思います。そのぶん重宝されて、相方として欲しがられました。実際にコンビを組んで、上方漫才のコンクールで決勝の8組まで残ったこともあります。でも、関西では漫才やコントが基本にあった上で、ものまねはライブのエンディングや10秒ゴングショーでやるサブ的な扱い。

ものまねの対象も、楽屋での師匠とかニッチな方向で。いわゆるスーパースターのものまねは東京の文化だったんですよね。それで、ものまねで勝負するにはやっぱり東京に行かないといけないなと思ったんです」

半年で大阪NSCを中退したJPは、資金をためて上京する。

「東京に来て、まずはワタナベコメディスクールに2期生として入りました。同期にはサンシャイン池崎、バービー、ハライチがいて、サークルのような和気あいあいとした雰囲気。居心地はよかったですね」

初めてテレビに出演したのもこの頃だった。

「在学中に、くりぃむしちゅーさんがメインの深夜番組『くるくるドカン〜新しい波を探して〜』(フジテレビ)という番組に、GACKTさんのものまねで出ました。GACKTさんが砲丸を投げて〈♪誰よりも遠くへ〜〉って歌うだけのネタでしたが、当時は深夜でも駆け出しの新人がお笑い番組に出られるのはすごいことで、同期からは『JP売れたな』って言われました。まぁ、それっきりでしたけどね」

その後、一時はワタナベエンターテインメントに仮所属をした時期もあったが、JPはフリーのものまね芸人として活動する決断を下した。

フリーの芸人になった頃、19歳のJPさん
フリーの芸人になった頃、19歳のJPさん

「ショーパブで生きていこうと腹を決めたんです。当時は『水商売の匂いがつく』とか『夜の世界に片足を突っ込んだら芸がおろそかになる』とかって、先輩や講師からすごく言われました。でも僕は『それって片足だけ突っ込んでるからじゃない?』と思ったんですよね。だったら僕は、両足突っ込んで本気でやろうって」

以来、赤坂にあるものまねショーパブ「ノーブル」一筋で働いてきた。ピーク時は週6日、20時からラストまで店に出て、客にものまねのネタを披露する生活。と同時に、自らテレビ局に電話をするなど、オーディションの情報収集も続けた。

「今はフリーの芸人も当たり前にいますけど、当時は事務所に入ってなんぼ。『うちの番組はフリー無理なんで』と言われることもありました。ただ、めるもさんというノーブルのママが、ものまね番組で振付の仕事もされていて、オーディションのパイプはあったんです。

当時は若くて尖っていたせいで『顔まねと歌まねは芸じゃない」とか言っていたのですが、最初に『ものまねバトル』(日本テレビ)に出たのは“ダルビッシュ有のそっくりさん”でした(笑)」

テレビや営業の仕事で忙しくなった今も、「ノーブル」の周年イベントには駆けつけ、時間を見つけては顔を出している。今回、取材場所に選んだのも、少しでも店に貢献したいという思いからだ。いじめから救ってくれたものまねと、売れない時代を支えてくれた人たちへの感謝は忘れない。

インタビュー後、取材スタッフのためだけにGACKTの「ANOTHER WORLD」のものまねを披露してくれた
インタビュー後、取材スタッフのためだけにGACKTの「ANOTHER WORLD」のものまねを披露してくれた
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 取材・文/森野広明  撮影/塚田亮平