フィンランド式トレーニングと出会う
徹底的に打ちのめされた、ソルトレークシティー・オリンピック(2002年)。僕は30歳になろうとしていましたが、体の衰えは感じていなかったので、引退する気はありませんでした。
ただ、心技体すべてを磨き上げての負けだったので、打つ手がありません。あれだけ鍛えたのに、何をやっても駄目だった。4年後のトリノ五輪をめざすにしても、だらだらと続けていくだけになるのではないか?
自分を見失いかけていた僕に、所属先の土屋ホームから、思いがけない提案がありました。「フィンランド人のコーチを招聘したい」と。
ソルトレーク以前の僕なら、頑なに断っていたと思います。自分のことは自分が一番わかっている、そのようなものはいらないと。しかし万策尽きていました。頭を一度からっぽにして、ゼロから自分のジャンプをつくり直す必要がありました。
元ジャンプ選手でヘッドコーチのペッカ・ニエメラと、元複合選手でアシスタントコーチのトピ・サルパランタ。はじめのうちふたりの新コーチは、僕に遠慮しているようでした。ふたりとも僕より3歳年下で、競技の経験も、現役時代の実績も、僕の方が上だったからです。
しかしこのときの僕は、ふたりの言うことをすべて聞くつもりでいました。ジャンプ王国であるフィンランド式のトレーニングを取り入れて、それまでの自分を変え、進化していく必要があったのです。
2002年6月には、フィンランドで1ヶ月半の合宿を行ないました。練習の拠点となったヴォカティという街は、森と湖のスキーリゾートで、夏も飛べるジャンプ台がありました。
初めてのフィンランド式のトレーニングに、僕はカルチャーショックを受けました。「うわ、楽だな。たったこれだけでいいの?」。まずトレーニング量。それまでの僕の練習量が、人並み外れていたこともありますが、従来の5分の1でした。もちろん質を伴う練習で、集中力は求められます。それでも分量は、5分の1。「もっとやりたい」という気持ちを抑えて、コーチに従いました。
そして「考えない」という新習慣。「ジャンプ台では、ジャンプのことを考えるけれど、それ以外は一切ジャンプのことを考えるな」。この発想は、それまで常にジャンプのことを考えていた僕には、目からウロコが落ちる思いでした。
だからリフレッシュ。練習が終わると、バギーに乗せてもらったり、森に熊を見にいったり。頭がからっぽになって、ひさびさに心から「楽しい!」と思えました。冬は犬ぞりやスノーモービルにも乗りました。ソルトレークまでの僕は、ストイック過ぎたのかもしれません。オンとオフの切り替えを知らず、常に神経を張り詰めていて、いつも疲れていた気がします。













