絶対にお前は世界一になれる
1996年6月のことでした。僕の実家が火事に遭い、家の中にいた母が巻き込まれました。姉からの連絡で、僕もすぐに病院に駆けつけました。一命は取り留めましたが、母は全身の70%に及ぶ大火傷を負い、予断を許さぬ状況でした。
その後何度も、母は皮膚の移植手術を受けました。気管や肺まで火傷を負い、喉を切開したため、話すこともできませんでした。
それでも見舞いに行くたび、母はかすかな声で「紀明、頑張ってるかい……」と言いました。僕よりずっと大変なのに、自分を後回しにして、子どもの心配をする母。
「母さん、頑張れよ!」と言うのが、精一杯でした。
冬になり、ワールドカップが開幕しました。
1997年1月に白馬で行なわれた大会で、僕は個人ラージヒルで2位に入賞しました。3シーズンぶりの表彰台。その後、一桁台の順位にはなかなかつけませんでしたが、総合順位17位でシーズンを終えることができました。翌シーズンは、いよいよ長野オリンピックです。
しかし、僕の心が晴れることはありませんでした。
母の容体は好転の兆しが見えず、11ヶ月の闘病の末、1997年5月10日に亡くなりました。48歳の若さでした。
「なんでよ! 長野オリンピックを見せたかったのに、どうして?」。最後の瞬間を看取った病院のベッドで、僕は声をあげて泣きました。
闘病生活の間、ペンを握る力もなかったはずの母は、一冊のノートに書き置きを残していました。どれも、ゆがんだ、震える字で書かれており、その場では直視できませんでしたが、僕に宛てた言葉も綴られていました。
今、この時を頑張れ。お前がどん底から這い上がってくるのを楽しみに待っている。絶対にお前は世界一になれる。