選手の権利獲得のため宮本が選手会長に名乗り 

「2006年から古田さんはヤクルトの選手兼任監督になる。いったい誰がその後を引っ張っていくのか」

高橋由伸、小久保裕紀の名前もあがっていたが、ストライキまでして止めた1リーグ制への移行は、読売主導の動きでもあった。巨人の選手がこのタイミングで会長として仕事を行うのは、困難であり、またジャイアンツのレギュラーである彼らに闘わせるのは酷でもあった。

後継者としてオファーを受けていた宮本も一度は断っていた。現役であれば、何の見返りも無い無報酬の選手会会長の仕事をするよりも、プレーに集中したいと考えるのは至極当然の感情である。

しかし、宮本のイライラは、公憤に変わっていく。

「せっかく選手会の地位が上がってきたのに、次の会長を決めるにあたって、皆が皆『俺、嫌だよ』というのはすごく良くないと思っていたんですよ。

俺しかいないだろうというんじゃなくて、周り見たら、あ、俺がやらなきゃしょうがないなという思いになっていったんです。選手会はここからは権利獲得に本腰を入れないといけないというのは、分かっていたので」

選手会の置かれた状況が分かっている誰かがやらなくてはいけない。決意をあらたにした宮本は試合前に、神宮外苑のこぶし球場でアップをしている古田に近づくと、「僕がやります」と宣言した。

古田は一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに満足そうな表情を浮かべた。無償でありながら、責任と義務は重い。宮本は誰もが腰を引く会長職に自らが名乗りを上げた。大変なことは分かっていたので、任期は最初に3年間と決めていた。

自らに義務付けた事務折衝への出席

スワローズの内野の要として現役バリバリの時期にプロ野球選手会会長を引き受けた宮本慎也
スワローズの内野の要として現役バリバリの時期にプロ野球選手会会長を引き受けた宮本慎也

会長に就任するにあたり、宮本が自身に課したことがひとつあった。それは毎月行われるNPBとの事務折衝の場に必ず出席するということである。

「古田さんは頭がよかったから、折衝は代理人の弁護士さんがやって、終えてから古田さんに説明をすれば、話はそれで伝わったと思うんです。

ただ僕の場合は、そこまで頭が追いつくかどうか。そう思ったときに自分がその折衝現場にいることで、解消しようと思ったわけです。経営者側、選手会側、それぞれの考えを生で感じることで自分の中でしっかり理解していこうと考えたのです」

選手会とNPBの選手関係委員会の折衝は月に一度、試合の無い月曜日に行われていた。移動日であれば遠征先で会合がセットされることになる。

レギュラーならオフには休息を取り、身体の手入れに注力したいものであるが、宮本は3年間この会合に出続けた。当然、心身ともにストレスはかかる。

それでも皆勤したのは、宮本自身の改革ビジョンが明確にあったからである。