私が「死んだ」と断じる理由は、ただ一点
問題の核心を改めて整理したい。
まず誤報そのものが「死因」ではない。回避努力を怠ったとはいえ、報道に誤りは起きるものである。問題は、間違いを犯した後に速やかに訂正し、説明責任を果たす誠実さがあるかどうかだ。読売新聞には誠実さがなかった。
また、権力と近いこと自体が絶対悪なのではない。読者の知る権利のために、あえて権力に深く食い込み、情報を引き出す取材手法もありうる。重要なのは、権力との間に健全な緊張感を保ち、編集方針の独立性を堅持することである。
私が「死んだ」と断じる理由は、ただ一点。読売新聞の経営者と編集方針の、あまりに近すぎる、そして歪んだ距離にある。社長が首相と会った前後で、紙面の方針が180度変わる。
読売新聞は、たまたまのタイミングと主張するのかもしれない。だが、社長がたまたま首相と会った次の日からたまたま編集方針が変わったなどと、誰も信じえないだろう。
ジャーナリズムとして再生したいのであれば、やるべきことは一つ
私は山口社長の過去のインタビューを読んで、新聞がオワコンになっていく時期をなんとか後ろ倒しさせようともがく、優秀な経営者なのだろうと感じていた。
であれば、今こそ、石破首相の歓心など買ったところで一部数だって新聞が売れるわけがないのだから、政治とは距離をおき、経営に専念した方が会社のためにもなると思う。
読売新聞がジャーナリズムとして再生したいのであれば、やるべきことは一つだ。経営と編集の間に、決して越えることのできない強固なファイアウォールを再構築することである。
編集現場の独立性を絶対的に担保するため、経営トップが編集方針に一切介入できないという断固たるコンプライアンスを確立すべきだ。
現状のままでは読売新聞にジャーナリズムの未来を語る資格はない。日本のジャーナリズム史に、拭い去ることのできない汚点を残したという重い事実と、真摯に向き合う時である。
文/小倉健一