誤報の失態を権力者への阿諛追従で帳消しにしようと
公には一切の非を認めず強弁を続けながら、水面下で最高権力者と手打ちを図る。二枚舌の対応だけでも報道機関としての矜持を捨てたに等しい。致命傷となったのは、面会の前後で、読売新聞の論調が突如として石破政権擁護へと転換したことである。
8月5日、6日の紙面では、石破首相が推進する減反政策からの転換を二日連続で一面トップで好意的に報じ、6日の社説では増産への決断を評価したいと絶賛した。
8月15日には、旧派閥による石破おろしの動きを批判する記事も掲載した。社内で妙に石破寄りと囁かれるほどの露骨な論調変更。誤報の失態を権力者への阿諛追従で帳消しにしようとする醜悪な見返り以外の何物でもない。
報道が、経営トップによる政治的取引の道具と化した瞬間、読売新聞は報道機関であることをやめ、権力の広報機関へと成り下がった。報道と経営の、あってはならない歪んだ一体化が、ジャーナリズムの棺に最後の釘を打ち込んだのである。
この文春の取材に対し、読売新聞は「いずれの質問にも答えられません。ただし、謝罪した事実はありません」と回答した。
この読売新聞の回答自体が、組織の腐敗を物語っていないか。面会の有無という核心部分について「答えられない」と逃げる姿勢は、事実を隠蔽しようとする意図の表れだ。
そして「謝罪した事実はない」という限定的な否定は、誤報の責任を公式に認めないという傲慢な姿勢を維持しつつ、ブランドイメージを守るための狡猾な自己防衛に過ぎない。
文春記事では、山口社長が「政治部はアンタッチャブルで制御できなかった」と釈明したとされる。この責任転嫁の発言と、面会前後に経営主導としか思えないほど見事に統制された紙面の豹変ぶりは、全く整合性が取れない。
この巨大な矛盾は、読売がジャーナリズムの独立性を装いつつ、実際には経営トップが政権との打算的な取引を主導した可能性を強く示唆する。読売の回答は、自身の失態を隠し、首相との関係修復を水面下で進めるための欺瞞に満ちた策略ではないか。
この誤報が社会に与えた影響は計り知れない。X上では「#石破退陣誤報」がトレンド入りし、号外の画像は嘲笑の対象としてミーム化(ネタにされて拡散)された。
今日現在、読売新聞は社会的な反響を完全に無視し、信頼回復への努力を一切放棄している。紙という安全な穴倉に逃げ込んだつもりなのだろう。
SNSで批判が可視化され、誤報が瞬時に拡散・検証される現代において、旧態依然の権威主義はもはや通用しない。読売新聞は国民の声を軽視し、自らの存在意義を自ら破壊したのである。