中村あゆみの挫折
1984年に歌手としてデビューし、1985年に発表したサードシングル『翼の折れたエンジェル』が大ヒットした中村あゆみさん。
メジャーデビュー直後のシングル2作目までは思ったように話題とならず、イベントにもファンが10人程度しか来ない日々が続いていたという。
しかしそんな日常は、サードシングル『翼の折れたエンジェル』が売れたことにより一変。同時期に中村さんのキャラクターがおもしろいとレギュラー番組が次々と決まったこともあり、知名度も一挙に全国区となった。
1986年には東京・明治神宮野球場で行なわれたワンマンライブに約3万人を集めた。
「音楽のことなんてまだ全然わかっていなかったけれど、プロデューサーの高橋研さんから『とにかく騒ぐように』って言われてその通りにしました。そうしたら(私を)見ている人たちが喜んでくれるからそれが楽しくて、自分なりにがむしゃらにやっていました」(中村さん)
「顔と声がミスマッチで六本木で遊んでいるユニークな女の子」だった中村さんのスター性を見抜き、デビューに尽力していた石岡和子さん(現マネージャー)という頼れる存在が常に横にいたものの、知名度が上がり、後輩たちが増えるにつれ、音楽との関わりについて悩むようになってくる。
お世話になっていた事務所が提案する方向性についていけなくなったり、「ロック歌手・中村あゆみ」の生みの親ともいえるプロデューサー、高橋研さんとのコンビもビジネス的な理由で解消することになった。
「私はもともと、(音楽の)素養があったりだとか、ものすごくなりたくて歌手になったわけではなかったんです。
女性のロック歌手といえば、白井貴子さんや山下久美子さんといった、ロックのために生まれてきたような先輩がいました。そういった先輩方が道を切り開いてくれたおかげで、私や、レベッカのNOKKOちゃん、渡辺美里ちゃんなんかが注目してもらえたと思う。
中島みゆきさんや松任谷由実さん、竹内まりやさんみたいなもともと素晴らしい楽曲が作れて、人々を魅了する歌声を持っている、音楽のために生まれてきたような方たちを見ていると、ヒットを経験していたとしても『私なんてイカサマ野郎じゃん』って思うようになったんです」